<斬首刑台のルイ16世とミクロ、メラ、ポリネシアの地域区分>
「ラ・ペルーズは見つかったか?」
斬首刑台に向かうルイ16世の最後の言葉、と噂される一つが、この台詞だ。
ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアの名称は一般的になったがその背景についてはほとんど知られていない。結論から言えば、この区分に科学的根拠はなく、ルイ16世の遺言でもあったラ・ペルーズを探しに太平洋探検をした、フランスの探検家デュモン・デュルヴィルが便宜上つけた区分でしかない。
ジェームス・クックによって成功したイギリスの太平洋探検ニュースは、フランスにとってスプートニクショックにも匹敵したものであった。「ベルばら」のイメージとは違って、政治には積極的に関与したルイ16世。財政難の中1785年、ルイ16世は海軍士官ラ・ペルーズに太平洋探検を命じた。
ラ・ペルーズはイースター島、ハワイ、アラスカ、カリフォルニア沿岸等を回り、1788年オーストラリアのボタニー港に到着する。食料と水を手に入れ、再び太平洋島嶼を目指したラ・ペルーズが再びフランスに戻ることはなかった。
この国家的英雄、ラ・ペルーズを探す航海が何度か行われた。その一つがデュモン・デュルヴィルによるものである。デュルヴィルがラ・ペルーズの消息を知ることはなかったが、彼の3度の航海で作成された百以上の地図と海図は第2次世界大戦まで使用されることとなった。
デュルヴィルの地図と共に広まったミクロネシア、メラネシア、ポリネシアは今では便宜上使用されているにすぎない。逆に島嶼国の人々が政治的なサブリジョナルの枠組みに積極的に活用する傾向がある。
それでは科学的区分はあるか? 「ニアオセアニア」と「リモートオセアニア」の区分がある。太平洋島嶼地域は大きく2つの植民が確認されている。5万年前のアフリカを起源としオーストラリアまで到達する人類の拡散と、3千年前のオーストロネシア語族の太平洋島嶼への拡散である。前者がニアオセアニア、後者がリモートオセアニアである。言語学者アンディ・ポーリィと考古学者ロジャー・グリーンの学説だ。
ラ・ペルーズは見つかったか?
約40年後1826年、アイルランド人ピーター・ディロン艦長が、ソロモン諸島南西部に位置するサンタクルーズ諸島でラ・ペルーズ探検隊の剣を入手。ボタニー港出港後間もなく、ヴァニコロ島で座礁したことがわかった。
(文責:早川理恵子 2009.6.1)