やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

笹川太平洋島嶼国基金クロニクル 「基金の20年」

(2008年に作成した文書です。)

笹川太平洋島嶼基金 クロニクル 「基金の20年」

 1987年、戦後はじめての日本の対太平洋島嶼地域政策「倉成ドクトリン」が発表された。翌年、笹川平和財団は倉成氏を議長に迎え、10カ国の太平洋島嶼国首脳を一堂に会した会議を日本で開催。日本政府主催「島サミット」に先駆けること10年。

 会議の成果である「笹川太平洋島嶼基金」の歩みは、冷戦の終結と共に始った。それまで太平洋で覇権を争っていた大国が一気に姿を消した中で、小さいながらも島嶼基金の役割があった。代表的な事業はUSPNet再構築を日豪NZのODA 案件としたことである。

 90年代半ばから中国、台湾等の新しいアクターが当該地域で大きな存在感を示すようになった。他方日本は低金利時代が続き、基金事業も年間1億円単位から半分以下に減額。沖縄と太平洋、ミクロネシア重視、とより焦点を絞った事業を進めることとなった。 

 2001年の同時多発テロは太平洋島嶼国も無関係ではなかった。大国の関心は一見テロとは関係ない太平洋島嶼国にも注がれ、豪・NZ・米、は支援を強化し、地域機関のトップは再びオーストラリア人で占められた。仏・中・台も「島サミット」を主催するようになった。その中で日本政府は3年おきに島サミットを継続開催し、基金は政策提言やメディア対策など積極的に協力している。

 2009年開始予定の第3次ガイドラインは、基金の20年の経験を生かしつつも、さらに柔軟で斬新な役割を見極めていく必要があるであろう。

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年表

<>は関連事項

1987年 <戦後初の日本の対太平洋島嶼国政策「倉成ドクトリン」発表>

1988年 笹川平和財団主催「太平洋島嶼会議」開催。故カミセセマラ閣下から

    太平洋島嶼国の福祉のために衛星打ち上げが要請される。

1989年 笹川太平洋島嶼基金設置。笹川陽平氏運営委員長に就任。

1990年 <冷戦終結

1991年 第1次プログラムガイドライン開始。「アジア太平洋子供会議in福岡」

    支援。米国の支援を失ったPEACESATの会議を日本(仙台)で開催。

1992年 USPNet再構築の支援に向けた調査、ODAへのロビー活動開始。

1994年 日本の島(沖縄)と太平洋の島を結ぶ事業を開始。

1995年 太平洋島嶼の教師が自ら自国の歴史教科書を作成する事業の支援開始。

1996年 文化財の保護管理に向けた地元の人材の支援開始。

1997年 <日本政府主催第1回島サミット>

1998年 USPNet再構築が日豪NZの協調案件として閣議決定される。

1999年 第2次ガイドライン開始。

2000年 <第2回島サミット>故小渕首相から笹川陽平会長に協力要請。

     渡辺昭夫東京大学名誉教授、基金運営委員長に就任。

2001年 <同時多発テロ

2002年 ミクロネシア地域協力を促した遠隔教育支援開始。ミクロネシア3カ  

     国の定例首脳会議の発端を作る。

2003年 第3回島サミットに基金から政策提言。WSIS,日本政府IT戦略にも太

     平洋島嶼を盛り込むよう提言を提出。採択される。

2004年 ‘91年開始ジャーナリスト招聘事業終了。約80名が日本を取材。

2006年 <第4回島サミット開催> <中台仏も島サミットを主催>

     太平洋島嶼政治研究部会発足。 

1990年~2007年 

事業総額 938,161,257円(2007年が未決済のため概算)

延べ事業数 137件

(文責:早川理恵子)