京都の町に高瀬川や白川がなかったらどんなにつまらない景色だろう、と思う。
豊臣から徳川への動乱の時、京都嵯峨に角倉了以なる人物がいた。
祖父は企業家、父は医者という家系。
鴨川の二条付近から水を引き入れ伏見港につながる約10キロの運河。
京都の経済が潤うだけでなく、鴨川の洪水対策にもなった。
角倉家はこの高瀬川の通行料でさらに潤い、了以の息子素庵はベトナムとの交易を復活させたり、京都の文化を支えた。
豊臣秀次と惨殺された39人の子供妻妾を供養する寺だ。
これも角倉了以が建てたものである。
角倉了以が残した家訓
「人を捐(す)てて己を益するにはあらず」