やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

友寄英正さんと笹川太平洋島嶼国基金

友寄英正さんと笹川太平洋島嶼基金

 気骨のジャーナリスト、八重山の友寄英正さんとの出逢いがなければ笹川太平洋島嶼基金は沖縄と太平洋島嶼国の関係を築けなかったであろう。

 友寄さんとの出逢いを書いておきたい。

 日本と太平洋島嶼国の相互理解・相互交流を目的に設置された基金

 東京に太平洋の島のジャーナリストを連れて来ても規模が違いすぎて記事にならない。

 日本の島と太平洋の島を結んではどうか?当時基金室長だった長尾真文さんの提案だった。

 島旅専門家の河田真智子さんの記事を示して、この人に会ってみれば?とも。

 早速河田さんに会った。日本の島で国際交流事業をやるなら、佐渡か、奄美か、八丈島あたりよ、とアドバイスをいただき、各島で「島で島を語る会」を開催。その中でも奄美大島が本土並みを越えた南への視点を探求していた。

 奄美では、ばしゃ山村の奥篤次さん、考古学者の中山清美さん、そして南海日々新聞の松井輝美さんが中心メンバーだった。河田さんが『ササカワ』を色眼鏡で見ていたのは自分たちの方だった、と雑誌か何かに書いてくれたことは覚えている。

 沖縄は最初予定にはなかったのだ。

 20代の私が奄美の3人のおじさんを怒らせてしまった。

 「世のため人のために事業をやる気はない。自分たちのロマンを求めたい。」

 「おじさま達のロマンに公益のお金はダセマセン!」

 おじさまのロマンはフラジャイルだった。「もうやらん!」。ただ、南海日日の松井さんは、多少反省があったようだ。その後、私を八重山に連れて行ってくれた。

 人生何が幸いするか分からない。

 八重山ではジャーナリスト協会の方々が集まってくれた。

 読売か朝日か忘れたが、泡盛が進むにつれてササカワ叩きが始まった。私も泡盛の勢いで結構言い返した記憶がある。

 もう二度とこんな島に来るものか!(遠いし。)と朝起きたら友寄英正さん(確か当時はRBCの特派員)と八重山毎日新聞の上地義男編集長から連絡があり、会いたいという。

 そう言えば昨晩地元ジャーナリストは言葉が少なかった。

 「本土の新聞社が勝手に八重山の事を決めてけしからん。俺たちはやるからよろしく。」

 「エッ、昨晩本土の記者が右だ左だ、とネチネチ言ってましたがいいんですか?」

 

 友寄英正さんは、右と左にどんどん行くと最後はぶつかるんだよ、と笑っていた。若い時社会党帆足計の秘書をしていた。でも左翼が、特に新左翼の傲慢さが大嫌いだと言っていた。

 後で知ったことだが1971年の佐藤栄作首相の沖縄返還演説で爆竹事件があったが首謀者は友寄さんだった。わざと八重山宮古と違う方言を使う青年を配置し、裁判ではヤマトグチは使わせなかったという。筋金入りの左翼である。イヤ「正翼」だ。

 友寄さんは糖尿病で2007年、あっという間に亡くなられてしまった。約10年、太平洋島嶼国と八重山諸島を結んだジャーナリスト交流事業、そして島で島を学ぶ「やしの実大学」を率いてくださった。

 「バカタレ!」が口癖だった。今でもどこかで友寄さんが見ていて「バカタレ!」と言われているような気がする。