やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(前口上2)ー高岡熊雄博士

 「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋」、前口上が続く事になるが、まずはビスマルクを敬愛してやまなかったように読める『ドイツ南洋統治史論』の著者、高岡熊雄博士について触れておきたい。  

 戦前戦後の日本は、政経学夫々の分野のベストアンドブライテストが命をかけて太平洋のちっぽけな島を研究していた。東大総長矢内原忠雄しかり。東急総裁五島昇しかり。そして、第3代北海道帝国大学総長もつとめた高岡熊雄博士である。

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高岡熊雄博士

 以下の情報はウィキペディアを参照しました。 

 高岡熊雄博士は明治4年、津和野藩士高岡道敬の次男に生まれる。  父、高岡道敬の詳細が見つからない。多分下級武士であったのであろう。明治以降の日本は地方の下級武士の禁欲的行動精神に寄って支えられて来た。吉田松陰、坂本龍馬、伊藤博文しかり。  

 島根を出て、札幌農学校予科で新渡戸稲造に師事。新渡戸稲造との出会いが高岡熊雄博士の人生を変えたことは想像に難くない。  

 1901年から3年半のドイツ留学をする。  高岡熊雄博士は、日本の農業経済分析に統計学的手法を導入し、余った農民のために移民と植民・移植民をやらなければならない、という立場であった。しかしながら

 「本国に対する政治的従属関係」を重視する東大・京大の植民政策学と異なり、農業移民をいかに定着させるかという「拓殖学」の性格を色濃く有していた。   

 同じく札幌農学校を卒業した兄の直吉氏は島根県知事・門司市長・初代札幌市長を歴任している。 10歳年上の兄が弟の熊雄を札幌に呼んだのであろう。家族と師に恵まれたわけだ。  

 『ドイツ南洋統治史論』の扉には「50年の長い間 内顧の憂なく 専心研学に 従事せしめた わが妻に」とある。妻にも恵まれた高岡熊雄博士であった。同じ学者の妻としては耳が痛い。