やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(2)<フィジー島問題>

(この「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋」は高岡熊雄著『ドイツ南洋統治史論』を参考にまとめています。)

 植民地政策には消極的であったビスマルクが、ドイツの基本国策を大陸政策から世界政策に変更したきっかけは、アフリカでもアジアでもなく、また南アメリカでもない、南洋諸島であった。

 ビスマルク南洋諸島をドイツの植民地にすべく動く以前に、その動機ともなるべく3つの事件があった。1874年のフィジー問題、1880年サモア問題、そして1881-1884年に発生した郵船航路補助問題である。

<フィジー島問題>

 イギリスがフィジーを占領したのは1874年10月10日。イギリスが同島を占領した時、すでに1860年頃からこの島に居住し、実際に農耕に従事しつつあったドイツ人の土地所有権について何ら考慮を払う事なく、その権利を否認し、追放しようとした。

 ドイツ政府は英国政府に土地の所有権を承認すべく何度も交渉を試みたが、回答がないどころかフィジー島でのドイツ人の権利は次々に英国の手に渡っていった。

 ビスマルクはこのフィジー問題を暫く傍観していたが、将来イギリスがこのような対応をした場合の対策として南洋諸島の酋長と友好条約を締結し、他国に占領されることがないよう、対策を講じる事は忘れなかった。

 ビスマルクが最初に友好及び最恵国条約を締結したのは、当時ニュージーランドが虎視眈々と狙っていたトンガである。1876年10月27日のことである。

 これによってドイツはトンガに対し、通商及び航海の自由権を獲得し、ドイツ領事の駐在権を承認せしめ、海軍用貯炭場としてババウ島の港湾と土地を獲得した。ドイツは初めて公の海軍基地を海外に所有する事となった。1876年をもってドイツの植民政策が始まったと主張する人の根拠である。

 同様に1877年と1879年にはサモア、1878年にはエリス・ギルバート諸島(現在のツバル、キリバス)、同年マーシャル、ラリック、ヂュークオブヨーク島、ニューブリテン北岸、ソサイエティ島の酋長、女王と夫々条約を締結した。

 従来自由主義に則って行動していたビスマルクであるが、ここに至って断固たる決心を持って植民地問題を主導する事となった。君子豹変。

 フィジー問題は3年の間進捗がなかったため、ビスマルクが英国に対し、より強硬な対応を取るに至った。最終的にそれまでドイツ政府からの要請を再三否定、無視してきた英国はドイツ人の所有権を認め円満な解決を見るに至った。

 これを機に、ビスマルクとドイツ政府及び国民は、植民地政策に自信を深くし、前途に一種の光明を与える結果となった。

 次回は<サモア問題>です。