やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(3)<サモア問題、ゴーデフロイ商会救援問題>

(この「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋」は高岡熊雄著『ドイツ南洋統治史論』を参考にまとめています。)

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ヨハン・セザール・ゴーデフロイ Johan Cesar VI. Godeffroy

 ドイツ人が太平洋の進出したのは意外と早かった。しかし、当時ドイツの統一(1871年)を見る前であった事、国家としての植民地進出よりも個人、もしくはグループによる商業活動が主たるものであったため、ドイツ国家としての植民地活動の記録はない。  

 その中でも「南洋の王」と呼ばれたゴーデフロイ商会が有名であった。  本商会は1766年にハンザ都市に設立。ヨハン・セザール・ゴーデフロイが相続した。ゴーデフロイ一家はフランスのユグノーでナントの勅令の廃止でドイツに避難した一家である。まさにマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の代表格であろう。  

 ゴーデフロイ商会ほか、ドイツ統一(1871年)以前のドイツ人による南洋での活躍も高岡博士は詳細に記述しているので、別の項でまとめたい。  

 さて、この「南洋の王」をビスマルクが救出する必要が発生した。  ゴーデフロイ商会は1857年以降、独力でサモアを拠点としてコプラ取引などでその興隆を極めた。しかし1870年代になってコプラ価格の急落と、欧州での鉱山業の失敗等が原因で経理上の困難に陥る。南洋でのドイツの権限は英国の手に渡る可能性が濃くなるに至り、いよいよ政府の支援を求めたのである。

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サモアのドイツ領事館 1879 年ドイツの保護市とした

 ビスマルクは当時、英国、豪州、ニュージーランドが南太平洋を統治し、イギリス南洋帝国を建設しようと企んでいることは周知していた。英米との協議を経てサモアに築いたドイツの保護市もゴーデフロイ商会なくては後ろ盾を失う事になる。即ちドイツの政治的、経済的勢力に及ぼす影響は必須であると判断。ゴーデフロイ商会を支援し、ドイツの南洋での勢力維持、拡大をすべきと決心した。

 1880年1月1日、ビスマルクはプロイセン大蔵大臣宛にゴーデフロイ商会救援の書簡をしたためた。この手紙はビスマルクがドイツ植民地政策につぃて始めて積極的な意見を開陳したものであり、1880年1月1日をもってドイツ植民地政策が始まったと主張する者の根拠となっている。

 ビスマルクが取った支援策は、”国家の与える利益保証にもとに、新設の会社をして商会の行って来た事業を引き継ぎ実行せしめること”、であった。  ビスマルクは海外における領土拡張をも反対していた「自由主義」から保護主義に、時代の要請に合わせ大きく舵取りをしたわけである。

 しかしながら自由主義が未だ優勢を占める帝国議会では、一商会を国家が救援するとは何事だ、との反対意見が多数を占めた。結果、反対128票、賛成112票の16票差でサモア補助法案は否決。(1880年)  このドイツのサモア補助法案否決に反応したのが英仏である。

 イギリスはドイツ人が商権を握るロツマ島をフィジーの併合し、ドイツのこの島への航海を禁止。船はフィジー島の英関税港に寄港すべしとした。1881年フランスもドイツの商権があったライアテア島をフランスのタヒチ保護領とし、フランス国旗を掲揚するに至った。

 またドイツ帝国議会がビスマルクのサモア補助法案を否決した背景に、ビスマルク自身への私怨、党派的感情があった事が国民に広く知れ渡る事となった。 ここに、ビスマルクの南洋統治策ーサモア補助法案は帝国議会では野党に敗れた者の、広く国民の支持を集めるに至った。 

 ビスマルクはこの好機を逃さず、再び南洋でのドイツの勢力の発展に自ら画策、直接遂行するに至る。これが郵船航路補助法案である。

 

 次回、「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(4)」は郵船航路補助法案です。

 ところで、ゴーデフロイ商会はどうなったのか?ドイツ南洋貿易栽植会社に組織変更し、有力な資本家の後援を得て独力で再興。1898年から社運は恢復し、1900年頃から1913年の第一次大戦直前まで利益配当は10%前後を維持した。背景にはビスマルク、皇帝陛下らの支援もあった様子である。