やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

福田恆存の象徴天皇論(2)「象徴を論ず」

福田恆存評論集 第五巻』(文芸春秋、昭和62年)に納められている「象徴を論ず」は、「文藝春秋」昭和34年5月号に掲載された。

皇太子殿下(現今上天皇)のご成婚を巡る、松下圭一氏の「大衆天皇論」を執拗に批判する形で、福田の象徴天皇論が語られている。

この松下圭一氏は「丸山眞男門下として名高く、マルクス主義全盛の時代潮流において大衆社会論を引っさげて論壇に登場」とwikiにある。「保守」福田の格好の批判対象のようだ。

福田は、松下の論文に二つ不満があると言う。方法と態度、だ。

しかし、福田も松下も、皇太子結婚に関するメディアの騒ぎ方が「文化人」として気に入らないという点で共通する。そして、福田は松下批判の筆を置いて、自身の天皇論を語るのである。

福田は、知識階級、国民の大部分が「そもそも憲法などというものを通して天皇を見ていたのではない。あくまで現実 を通して見ていた。」(427頁、福田の文章は旧仮名遣いだが変換ができなので現代仮名遣いで引用。)と。それは現憲法でも同じである、と。

次に「象徴」という言葉を鮮明に批判する。

「私には「象徴」という言葉の意味が解らない。解っている人がいたら教えてもらいたいものだ。」(429頁)

加えて曖昧な「象徴」という言葉を「憲法第一条に用いて、解ったような解らぬような気持ちで何十年も過ごしてきて、私たちは今なお恬然としている。」(429頁)と強烈に批判する。

その結果、天皇が人間になったと言う事と、象徴になったという事が同時に起る矛盾を指摘する。

しかし、その矛盾は「象徴」という言葉が天皇の神格性を保存する事に繋がった皮肉に論が展開。

ここで長くなるが日本人の神の概念について論じている箇所を引用したい。

「なるほど国学の亜流がそれを曲解し、さらに神道がそれに便乗し、薩長土がそれを利用した。だが、国民感情の底流はほとんど変化していない。人々は神という言葉を「神のごときもの」の意に理解し、そのように天皇に感情移入をしているのだ。」(430頁)

象徴という言葉を憲法で用いてはいけない、と福田は明言する。

次に福田はこの「象徴」という言葉が導く深刻な問題を指摘する。

神でなくなった天皇は、象徴というわけのわからないものになって「非人間化」が起りつつあると。そこで松下の「大衆天皇論」を再び批判する。即ち大衆天皇は俳優のようなスターになったわけではなく、個人的人格なき存在であり、恐ろしい事に憲法第一条で、天皇を象徴と総意したのは「主権の存する日本国民」である、という事になってる。さらに「主権在民」はこの一条にしか出て来ないのである。即ち天皇を象徴とするために日本国民に主権が与えられたのである。

福田は自分は言い過ぎただろうか、と反省を見せながら、知識人は天皇という禁忌に触れたくないため議論しない態度が見られるが、それはいけないとも主張する。

「象徴」以上に曖昧な「大衆」という言葉の問題も論じる。

最後に、天皇をどう思っているか、どのように神でないか等々明らかにする努力が必要と主張する。

福田は新渡戸を読んでいない。

本当に福田に教えてあげたい。新渡戸もそんなつもりで天皇は国民統合の象徴と言ったのではない、と。きっと「象徴」という言葉が憲法に使われた事を知ったら福田以上に反対するであろう、と。