ベン=アミー シロニーは、『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来』で、9世紀に天皇が多産であった事を数字で示している。
私はこのような資料は初めて見たのでちょっと驚いた。
桓武天皇(在位781−806)16人の女性と36人の子供
嵯峨天皇(在位809-823)28人の女性と58人の子供
文徳天皇(在位850-858)23人の女性と31人の子供
光孝天皇(在位884-887) 25人の女性と45人の子供
醍醐天皇(在位897-930)18人の女性と38人の子供
藤原姓の貴族一門が天皇への配偶者を独占し、宮廷を支配するようになった、とある。(同書105頁)
しかし藤原家と天皇家は20世紀まで共生的結びつきがあったにもかかわらず、藤原家が皇位を手中にすることはなかった。(同書105頁)
多産の結果として、皇子・皇女が増え過ぎたので桓武天皇が天皇家の外に貴族的家門を立てた。それが源や平である。
清盛以来、娘を天皇家に嫁がせる事を武士はしなかった。他方藤原家門が、天皇家と同じく政治的にも軍事的にも力がないのにその特権的地位を維持し続けた。
政治的に非力だった、いや非力だったからこそ歴代天皇は文化面の指導性を発揮した、とシロニー氏は分析している。(126頁)
ここは私は疑問だ。和歌を詠む事が政治的ではないのだろうか?
さらにシロニー氏は、義満が中国皇帝から「日本国王」の称号を受け皇位にもっとも近づいたが、その後、誰も妨げた訳ではないのに、後継者は義満のやった事を繰り返さなかった、と書いている。そこには暗黙の了解があった、とシロニー氏は述べている。(145-146頁)
ここは何となく納得できるがその「暗黙の了解」はどんなものなのであろうか?
非力ではあったが、軍事的支配者、織田信長と足利将軍、本願寺勢力の間に割って入り和解を成立させた正親町天皇の事を上げている。(146−147)