やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

カール・シュミットとは何者か?

 
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カール・シュミットとは何者か? 

 

シュミットが10歳の一人娘アニマに語った『陸と海と — 世界史的一考察』を紹介する前に、長尾龍一教授の「カール・シュミットの死 — 政治的終末論の行方」という小論をこのタイトルをそのまま題にした書籍『カール・シュミットの死』(1987年、木鐸社)に見つけたので、簡単にまとめたい。

 96歳という一世紀近いシュミットの長い生涯を長尾は、順調な若手学者としての第一期、政治(ナチスの事だと思うが)に「鼻づらをひきまわされて」敗北に終わった第二期、そして悪意の監視のもとで孤独な隠遁生活を送った第3期と分けている。(p. 35)

 第一期はワイマール憲法起草者フーゴー・プロイスの後任としてベルリン商科大学の教授に就任する1928年以前である。即ちシュミットが39歳までだ。

  1929年の大恐慌が彼の人生を変える。

 ドイツを支えていた米国からの資金が引き上げられ、ドイツには失業者が溢れる。これをワイマール憲法48条大統領非常大権を発動し強行政策で対応しようと動いた。その際、その合憲性が問題視され、シュミットは「一種の政治的法解釈」によって正当化したのである。

 その翌年1930年の選挙でナチスと共産党が大勝利し、シュミットは大きな脅威を感じ、大統領非常大権で違法化する事を主張したのである。結局「ワイマール体制の墓堀人」と呼ばれたクルト・フォン・シュライヒャー将軍と盟友であったシュミットはナチス台頭と共もに敗者となったのである。(p. 36-38)

 1933年5月1日、シュミットはナチス党員となる。そしてナチスの法体制基盤を支え、盟友であったシュライヒャー夫妻も虐殺されたレーム事件さえも「総統は法を護る」という論文で擁護するようになった。シュミットのかつての友人たちから曲学阿世の批判を受けるのである。(p. 39-42)

 ここで、一人娘アニマの事を思い出したい。

 シュミットは2度結婚している。2番目の奥さんとは1926年に結婚。奥さんは23歳、シュミットは38歳だ。1931年にアニマが誕生する。シュミットがナチス党員になったのはアニマが2歳の時。長尾教授は家族の事を書いていないが、当時シュミットには養う家族がいたのだ。

 1939年、シュミットはラウム論を導入し、ヒトラーの東欧政策を裏付ける。

 1942年に10歳の一人娘アニマに『陸と海と — 世界史的一考察』を書くのだが、どういう状況だったか、この長尾論文からはわからない。

 敗戦後、ソ連軍と米軍に逮捕されるが、裁判にはかけられずに釈放される。困窮していたシュミットは病気の妻を医師に見せる事もできず亡くしてしまう。シュミットが60歳の頃だ。娘のアニマは十代後半の多感な時期だ。

 長尾論文の後半はシュミットの思想的な経緯を追っている。

 この箇所こそ、この論文の重要な部分のはずだが、私に手に負えない。

しかし『地のノモス』について短く書かれた部分はこれから読むのに役立つかもしれないので、書き留めておく。

 国際史法を独自の視覚から書いた同書は、ヨーロッパの「具体的秩序」(それは戦争の囲い込みによって諸国が併存する状態)がアメリカとロシアの間で解体し、新たな「地のノモス」の成立を悲観的に結論づけている、という。(p.55)

 これは即ち、ヨーロッパの全世界的植民地支配体制が「自決」「脱植民地化」というイデオロギーで崩れ、小国が次々と誕生している現代を予告しているのではないだろうか?