やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

稲村公望さんとの出会い

私が、笹川平和財団で30年近く働く事ができたのは笹川陽平氏がいつも高く評価してくれたからである、ことは事実だ。

1991年に財団に入った時、前任者がメチャメチャにしたまま既に財団を去った状態であった。財団の幹部は皆さん匙を投げている状態だった。しかし、当時島嶼国基金運営委員長だった笹川会長だけからはどうにか再建したい、という思いが伝わってきた。

まだ20代の私に「早川女史へ」とメモの入った太平洋島嶼国情報を色々送ってくれたのは笹川会長だけだった。これも事実だ。

前任者が混乱のまま置いていった事業の一つが衛星通信の事業だ。

財団で太平洋島嶼国の事も情報通信の事も知っている人は一人もいない。当然の事として資料調査から始めた。そこで出会ったのが当時郵政省の幹部だった稲村公望さんだったのだ。

太平洋島嶼国の情報通信インフラという本来ならば政府ODAの分野だが、政府はどこも関心がなく、奄美大島出身の稲村さんだけが研究会を作って真面目に取り組んでいたのである。

財団理事長の入山映からは「衛星というと君は目が潤むねえ」と嫌みを言われ、もう諦めろと言われつつも諦めなかったのは稲村さんから、離島へのそして弱者への支援の哲学を教わったからである。下記に引用する。

 

「孤独の克服は単なる健康の問題でもなく、経済の問題でもなく、最後は良心や愛情や信頼の問題に行き着く。 現代の情報通信技術革命にしても哲学的基礎のないものはすぐさま陳腐化するか悪用されることになりかねない。国や社会の豊かさは『障害者や老人、あるいは社会的弱者をどう処遇するか』で決まる部分があると考える。技術開発や知識の集積も、単なる産業的な利用や経 済の成功のみが目的では、いずれ破綻をまぬがれない。次の時代が知識と情報の時代であればグラハム・ベルの発明した電話の開発の『人間的背景』を思い出し、心優しい知識と情報のネットワーク構築が必要となってくる。」

稲村公望「国際秩序への模索」『国会月報』1992年7月号20-21頁

電話の開発者、グラハム・ベルの母親も妻の難聴者であった。ベルが電話を開発したのは難聴者の生徒メイベルと早く結婚したかったからでものあったのだ。

1989年1月10日、フィジーで行われたカミセセ・マラ閣下と笹川陽平会長の会談で、太平洋島嶼国のために衛星を打ち上げて欲しいという要請を受け、これが南太平洋大学の遠隔教育通信事業に収斂。当初財団の支援事業として検討していたが笹川運営委員長(当時)の判断でODAにするよう動いたのは私である。ここら辺の詳細は一つ目の博論にも書いておいた。

私が戦わねばならなかった相手は、あらゆるステークホルダーの島と通信に関する無知と無関心であった。

稲村さんの「島」へのまた「弱者」への哲学は心の大きな支えになった。

郵政官僚だった稲村さんは、郵政民営化に反対し、小泉内閣で政府を去った。その時の稲村さんも良く存じ上げている。命が狙われるような事件だった記憶ある。その後本当に命を狙われたのではないかと思える場もあった。でも稲村さんは死の淵から生還し、今でも大活躍をされていらっしゃることは私にとって大きな励みなのである。

出会えた事を感謝したい。