新渡戸の植民政策講義、第二章 植民の理由・目的・利益は10項目もあるのでざっと2、3回でまとめようと思っていたが項目によってはかなり重要で、初回に読んだ時に書き込んだ鉛筆の線やメモがたくさんある。
慌てずゆっくり読んでいきたい。
まずは 第一項 人口増加の結果過剰の民を移すこと
この講義があった50年前頃、というと1850年頃であろうか?新渡戸はその頃までは人口増加が植民の理由である事が論じられていたが、人口増が収まって、ドイツでは自国の工業が盛んになることで米国への植民止まり、逆に人口流入が起った、即ち経済力が植民の理由である事を指摘する。
スペンサー、マルサスを引いて世界的人口増加と植民の関係に触れた後、個々の国の例をあげて必ずしも人口増加だけが原因ではないことを説明。
例えば、ベルギーは広大なコンゴ領があるにも拘らず、移民をせずに小さな母国に留まっている。他方人口密度がそれほど高くないアイルランドたイタリアは多くの移民を出している。それは自然的に見れば人口が少ないのは土地が悪いからであり、経済的に見れば産業がないからで、あれば留まる。
また人口を送るとは、労働力を送ることだが、土地があっても資本がなければ行かない。労働を送るところには資本が必要で、北海道もカリフォルニアも政府や大会社が事業を始める時に人口が流入した。
よって人口論と植民の議論は思想に大きな影響を与えたが、現実には重要ではない。
人口論を議論したのは、植民論を最初に唱えたFabriであった。米国にドイツ人が多く移住したため母国の農業が打撃を受けたため、自国の植民地をアジア・アフリカに獲得してそこにドイツ人を送ろうとした。しかし、ドイツ人やはり米国に移民してしまう。アジアでは英国が先に開発した香港やシンガポールにドイツ人は進出している。ここで新渡戸は「ドイツ人はイギリス人の遺した利益を拾って、後に大きくなる恐ろしき人種である」と書いている。ドイツ留学をし、ドイツ人の友人も大い新渡戸だ。冗談半分であろう。
1880年代はドイツの移民は年間20万人であったが、1900年には2万人になっている。しかも2万人の8−9割は米国に。
次にフランス。
フランスのは人口増加がないので,植民との関係はない。ビスマルクは植民地を持って移民なきフランス、移民ありて植民地なきドイツ、移民も植民地もあるイギリスとのこと。ところがイギリス人はイギリスの植民地に行かないで米国に向かう。ポルトガルも多くの植民地があるがブラジルか米国を目指す。オランダも毎年3、4千人の移民は自国植民地に行かない。
イタリアも同様で毎年50−80万人の移民を排出するが米国、ブラジル、アルゼンチンを目指す。現地でイタリア人同士の競争が発生するため、自国領土の移民を強制させるためトリポリを取ったのである。それでも多くは米国に移民した。トリポリ戦争の理由は人口論ではなく経済共同区域であった。
1841年から1900年、ヨーロッパ全体からの移民は2,400万人。その内イギリスが800万人、ドイツが500万人。そして2,400万人中1,900万人が米国に渡った。
1,900万人の移民を抱える米国はその門戸を閉ざそうとしている。豪州、カナダもだ。よって日本は満州と朝鮮の自分の植民地に移民をせざるをえない。南米は日本人個人は受け入れても集団は圧迫を受ける。米国は日本の次にイタリア人も拒む気配がある。イタリア人は教育なき労働者多く、秘密結社を作るからである。ポーランド、ギリシャ人も同様。日本人排斥の理由は同化しないから。
移民の中には素質が悪い人が多い。新教徒だとて例外ではない、と新渡戸は十字軍の暗黒の歴史を引用。但し日本はその粗悪さが激しいと。そして日本が青島や南洋群島に移民させるべき人物は劣等人種を避けるべきである。(ということはこの講義は1914年以降である)
新渡戸は植民地に行く人物は、青年血気、過去の経歴良好ならざる、植民地にて放埒な生活を好む、悪い風俗を伝播する 者が多くこれを限界人間(marginal humanity)・限界社会(marginal society)と名付け社会問題に留まらず対外関係に悪い影響がある事を指摘。
ここでポルトガル領、アンゴラでカカオ栽培に黒人奴隷を虐使して人道に反すると国際批判を受け、イギリスの二大チョコレート会社は原料購入を中止した、例を上げている。
他方性格の放埒な人物は旧来の慣習に反抗し、犯罪者となるが、植民地では腕を、個性を発揮して産業を興す。frontier life =辺境生活 が本国に与える影響は無視できなし。辺境人は活眼を有し、度量大きく、七転八起の勇気がある。ってこれ後藤新平の事だ。