やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

【極秘】「南洋観察に関する報告」重光葵1921年

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「極秘」と記された報告書がある。今は公開されウェブでもアクセスできる。

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B15100706900

この報告書をじっくり読みたいと思っていた。日本の南洋統治政策に大きな影響を与えているはず、だから。

以前も少し書いた。

重光は1911年外務省に入る。1919年のベルサイユ会議から戻って1921年参事官の立場で南洋諸島を訪問調査し、報告書を出している。33歳だ。入省10年で参事官。当時はそんなものだったのか?それとも重光が優秀だったのか?

南洋訪問は軍艦春日で1月15日に横須賀を出発し3月16日台湾の高雄に戻っている。外務事務官郡司喜一も同行。

報告書は甲乙丙丁の4号からなり丁号は参考資料として現地官憲の報告書その他で印刷していない。丙号は現地インタビューで機密を要すべき内容なので別刷り、とある。

 

甲号は1921年3月27日台北から内田康成外務大臣伯爵宛に発信されており、調査事項の回答を簡潔にまとめた20頁強の内容。

乙号は「南洋統治に関する観測」と題し1921年4月5日香港と記されている。甲号の補足的内容とある。こちらも20頁程度だ。

この後に大正8(1919)年7月の日付で拓殖局の「南洋占領地事情概要」が付されている。

別刷りで1921年3月20日の日付で(即ち高雄下船後4日目)「北太平洋帝国委任統治諸島視察録」が90頁強書かれている。どうでもいいことだが、タイプライターを持っていったんだろうな。PC持ち歩いて太平洋島嶼国を出張していた自分と同じだ。

占領後群島の民政は南洋群島防備隊の司令官の下に分隊長をおき軍政事務と共に処理、とある。大正7年、1918年になって軍政と民政が分離。その民政も海軍大臣の下におく、とある。重光の報告には「民政部員の低級」と題して知識もなければやる気もない、軍隊の非行を改めるどころか、下級官吏は軍隊の下級軍人よりも島民に非行を行う と赤裸々に報告されている。さらに無知でやる気のない民生部員は軍人に対し戦々兢々として不安を感じている、と。

日本帝国海軍は何をしていたんだ!

実はこの重光の極秘文書を知ったのは平間先生の論文からであった。平間先生は当然、というかこの海軍批判満載の重光の報告書を評価していなかった。もしかしたら重光が過剰反応しすぎたのかもしれない。ただ、台湾、満州の軍政を引き継いだ後藤の見解をある程度知っているので軍政の限界は理解できなくもない。

他方、これが豪州や米国だったらもっと酷い民政、軍政だったかもしれない。島民も現地法人もみんなドイツ時代をなつかしんだという。それほど酷い軍政が7年も敷かれたのだ。そしてその情報は日本に猜疑心を持つ米豪に誇張されて伝わったであろう。