やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

西尾珪子先生と太平洋の島々(訃報)

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日本海軍護衛艦かが、むらさめ、しらぬいがパラオに入り、現地から写真や情報が次々と送られてくる中で、国際日本語普及協会(AJALT)の関口明子理事長からメールが届いた。同協会会長の西尾珪子先生の訃報であった。8月15日に旅立たれた。

あれから3週間。西尾先生との出会い、西尾先生と駆け巡った太平洋の島々、満腹亭と称する東京麻布の西尾邸での夕食を兼ねた研究作業、そして西尾さんのご尊兄である團伊玖磨氏との思い出。西尾先生といっしょに太平洋の日本語調査研究をしたカッケンブッシュ知念寛子先生。10年ほどの思い出が、まさに走馬灯のようにぐるぐると頭を駆け巡っていた。

何かを書き留めたい、という思いと、どこまで何を書き残しておくべきなのか? ずっと思い悩んでいたが、やはり西尾先生との思い出は太平洋の島々なのでそれを中心に書きたい。一回ではまとめきれない。それほど、深く、長いおつきあいをさせていただいた。少なくとも私にとっては。

 

<出会い 麻布十番>

出会いは、私が企画した太平洋島嶼国の日本語教育調査研究事業である。誰から指示されたわけでもなく、私が一人で発案・企画した事業である。専門家との出会いから企画を立てる事もあるが、この事業は企画を策定してから専門家探しを始めた。1995年だった。

「私でもよろしいでしょうか?」というメールをもらった。

西尾珪子さんだった。知り合いの日本語教育専門家に「この人知ってる?」と聞いたところ「日本語教育の大御所。お兄さんは團伊玖磨さん。そんな偉い人があなたの事業に協力するわけない。」と、最後に余計な一言までついてきた。音高・音大出の私は「團伊玖磨」の名前に硬直した。

西尾先生にお返事すると当時理事長をされていたAJALT事務所に呼ばれ軽くご挨拶と事業説明を。西尾先生から詳細を協議したいので麻布十番の自宅に来るように指示があった。遅れてはいけないので、30分ほど早く麻布に着いて、場所を確認した後、近くの喫茶店で紅茶を飲んだ事を覚えている。とにかく緊張していたのだ。

私が企画した調査研究は一人の専門家に委託する予定であったが、西尾先生から太平洋島嶼国の現状に詳しいカッケンブッシュ知念寛子先生と二人でやりたい、西尾先生は政府の日本語教育関連審議委員などをされていて政策方面で力が発揮できる、ということだった。私は、太平洋島嶼国の日本語教育をODA案件にしたかったので即了解した。

寛子先生は米領だった沖縄で米国人として東京の大学に留学され、米国政府事業でまだ信託統治領だったミクロネシアのヤップ島で過ごされた経験をお持ちだ。日本語教育だけでなく、語学、語学教育学、島嶼社会・文化とあらゆる見識と米豪を含む太平洋のネットワークをお持ちだった。そのネットワークの中には私の恩師、渡辺昭夫先生もいた。

調査研究事業終了後、西尾先生は研究報告書をもって外務省を訪れ、そこに鳩山由紀夫議員も現れた事を教えてくれた。橋本内閣の時期ではないかと思う。鳩山議員は西尾先生の親戚。西尾先生のご貴姉が石橋家に嫁がれ、石橋家の令嬢が鳩山家に嫁がれた。由紀夫議員のご尊母である。

太平洋島嶼国の日本語事業、具体的には南太平洋大学の日本語コースは、私の思惑通りODA案件(1998年から2005年)になったのである。