やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて30年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

西尾珪子先生と太平洋の島々(一旦終了)

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まさに太平洋の島々が私と西尾珪子先生を結んだのだ。

「私でもよろしいでしょうか?」

という最初にいただいたメールは忘れられない。

もし私が企画した日本語教育調査研究の対象が「太平洋の島々」でなければ、西尾先生は上記のメールをくださらなかった、であろう。

それほど沖縄を含む太平洋の島々は西尾先生と寛子先生にとって、そしてご尊兄の團伊玖磨氏にとって、さらに同窓の上皇陛下にとっても特別な存在だったのだ。

実際に西尾先生が太平洋の島々をどのように語っていたかも書きたいが、今は一度筆をおくために、今まで書きながら思い出した事を留めて、一旦終わりにしたい。

本来であれば2年間の日本語教育調査研究事業で距離を置くべきところ財団幹部の詐欺師的行為で團伊玖磨氏との接点が生まれ、また私が持つ太平洋島嶼国に関する知識情報を、そして仕事を評価していただき、お付き合いは続いた。

西尾先生が理事長だったAJALT、そしてご家族の内情も私によくお話いただいた。私は直接利害関係はないが、ある程度の情報を持ち、信頼いただいたのであろう。勿論その詳細はここには書かないが、だんだん西尾先生の不満が私にも向いて来た事を感じていた。

西尾先生は強い信念と価値基準を持っていた。その信念と価値に、特に自分が目をかけた人物が従わないことに憤慨されている様子があった。私もその射程に入って行くような気配を感じたのだ。

「あなた、そんなんじゃあだめよ。」

そうまで言っていただけることを感謝しつつも、では路頭に迷う覚悟で生きて行く勇気があるのか。それを華族のお嬢様は理解しているのか、と正直思うことも。2001年團伊玖磨氏が亡くなられ、私の人生もいろいろあり、西尾先生とは距離を置くようになってしまった。

でもAJALTの関口理事長や寛子先生からよくご連絡をいただいて、ご様子は伺っていた。

 

1995年 「私でもよろしいでしょうか?」

というメールを私に送ってくれた西尾先生は当時63歳だった。私もその年になって、自分より30以上の年下の若い人が作った計画に果敢にチャレンジする気概が保てるだろうかと問えば、全く自信がない。豪傑という言葉は女性に使うものではないかもしれない。兎にも角にも豪快な方であった。

ご冥福をお祈りします。