やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

ペリリューの激戦 キングとニミッツの思惑

パラオをかすめ、フィリピンを襲った大型台風。そのまま北上しベトナムへ。

友人家族は数年前にサイゴンに引っ越したはずだが、気になって連絡をしてみた。

無事であった。彼の返事の添えられていた一言がとても印象的だった。

Be good and be grateful for what I have today. And be nice to

the earth. My good life can be unexpectedly blown away like dust in the

wind. (Isn't that name of a song?) And it does not need to take the

communists, or years of war, to do that. A typhoon can accomplish that in a

few days. (Ask the thousands of Filipinos.)

平和な日常は、風に吹き飛ばされる塵のようである。

コミュニストも何年に渡る戦争も必要ない。台風が数日でやってのける。

こんな意味だと思う。

彼はベトナム戦争の犠牲者である。難民となって米国に逃れ、ビジネス、政治ともに成功し、今はご家族とベトナムにいる。慈善活動家としても活躍している。

パラオからフィリピンへ向かった台風で思い出したのが、ペリリューの激戦。

ニミッツの最大の失敗、とも必要のなかった激戦、とも言われているようだが、別の見解を示したペーパーを見つけた。

"What was Nimitz Thinking?"

Proceedings Magazine - November 1998 Volume124/11/1,149 [5]

By Colonel Joseph H. Alexander, U.S. Marine Corps (Retired)

http://www.usni.org/magazines/proceedings/1998-11/what-was-nimitz-thinking

ニミッツのペリリュー戦は失敗でもなければ、歴史家がよくいうマッカーサーへの挑戦的なものでも、なかった。ニミッツの上司、アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長の明確な意思であり決定であった、という内容だと思う。

(何回か熟読してからこのブログ書き直したい。戦争用語がよくわからない。。)ふらふら

関心を引いたのは下記の部分。

キング司令官は1944年2月の時点で、太平洋戦の主要な目標はルソン島である、と。そしてそのためにカロリン、マリアナパラオから日本軍を一掃する必要がある。そして情報通信を研究している自分にとってとても興味深いのが、「オランダ領東インドにつながる通信網を遮断せよ。そしてマッカーサーのミンダナオ攻撃を守れ。」という箇所である。

(引用 from "What was Nimitz Thinking?")

Among these four factors, Nimitz's close relationship with King likely proved most crucial. They had not always seen eye-to-eye on the necessity of invading the Palaus, but a sharp memo from King on 8 February 1944 (after the initial success of the Marshalls campaign) spelled out for Nimitz his objectives for the remainder of the year. "Central Pacific general objective is Luzon," said King, "[which] requires clearing Japs out of Carolines, Marianas, Pelews [sic]—and holding them." This strategy, King argued, would cut the Japanese lines of communication to the Dutch East Indies and protect the flank of MacArthur's forces advancing to Mindanao.

第一次世界大戦後、日本がミクロネシア地域を委譲された事に怒り狂ったのが米国である。

なぜか? ヤップに海底ケーブルの経由地があったからである。ヤップが米国と上海、オランダ領東インド、そしてその先のヨーロッパを結んでいた。ドイツ統治時代の遺産である。

(英語ですがこちらのブログを参照ください。http://blog.canpan.info/yashinomi/archive/772

当時世界最大の大英帝国通信網は他国の相互接続を拒否した独占体制であった。

ヤップの海底ケーブルは、日本統治になって南洋庁をおいたパラオにも結ばれたのであろう。(ここら辺の詳細は未確認)

ヤップ、パラオ自体は小さな島だが、まだ通信衛星もない当時、ケーブル(もしくは無線)の通信網経由地として、キング司令官も見逃せない戦略的場所であったわけだ。

<追記>

ニミッツの太平洋海戦史』の原文"The Great Sea War"を入手した。

上記に紹介したColonel Joseph H. Alexanderはこのニミッツの記述をなぞったもののように思える。ニミッツマッカーサーのフィリピン上陸への道を開くための中央太平洋戦であった、と述べている。また、サイパンパラオの米軍負傷者と死者はフィリピンのそれより多い事への批判に対し、太平洋の島々に散る日本軍を駆逐しなければ、その戦力はフィリピンに移動されていたであろう、とも。即ちペリリュー戦は必要不可欠であった、という事だ。

サイパン:死者3,426, 負傷者13,099  パラオ:死者1,950 負傷者8,515 その他の島嶼:死者1,648 負傷者8,111)数字は"The Great Sea War" p 370 より。

なお、"The Great Sea War"の和訳には下記のニミッツの序文がある、という。

日本は、強力な海上力を持つことによって、あるいは、大きな海上力を有する強力な同盟国と手を堅く握ることによってのみ、その生存と繁栄を続けることができる。

ニミッツの太平洋海戦史』の序文に書かれているというニミッツのメッセージ

そしてニミッツは日本版の印税を、ニミッツが最も敬愛し日本海軍の研究に情熱を注ぐ要因となった東郷平八郎元帥の神社再建に寄付した、という記述もウェッブに見つけた。

http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog128.html