やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

蜷川新著 『國際聯盟と我南洋の委任統治地』

  『日本の国際法学を築いた人々』一又正雄著を再読し、読んでみたい論文書籍がいくつかあった。その一つである。蜷川新は足利家の末裔。東京の連盟事務所に委任等治領先住民の改善を委任統治委員会に対し訴えにきたそうである。多分パラオやサイパンにも行ったのであろう。国際法学者が委任統治を大いに議論していたのだ。当時は。

 

蜷川新著

國際聯盟と我南洋の委任統治地

 

脫退論は我國防を危ふす

國際聯盟と我南洋の委任統治地

蜷川新

 

目次

一、滿洲問題と南洋の委任統治地問題

二、聯盟脫退論者の責任

三、聯盟脫退と我が南洋の運命

四、再び聯盟脫退と我が委任統治地との關係を論ず

五、國際聯盟脫退論と其危險性

六、大山博士の委任統治論の不明

 

一、滿洲問題と南洋の委任統治地問題

滿洲は今現に日本の領土にあらざること勿論である。滿洲に於ける租借地及鐵道附屬地を除き、滿洲は新滿洲國卽ち日本國政府が、故更に明示の方式を以て承認し、且つ日本の軍力を以て其の獨立を保障しつゝある新獨立國の領土である。(日本政府の此事に關する聲明書を見よ)

南洋の委任地は、同じく日本の領土ではない、委任地は聯盟の領土である。全世界がヴエルサイユ平和條約を以て、斯く約束したるものである。併し乍ら、滿洲とは異り、不斷に聯盟の監督を受くるにせよ、此の委任地の上には、全然日本國の法令が行はれ、日本の領土の如くに統治せらるゝ領域である。之れも亦平和條約を以て、列國が斯く承認して居るのである、(聯盟條約第二十條參照)

其故に、明かに外國たる全滿洲の爲めに、日本人が其全國力を注ぎ、此の外國たる滿洲の事の爲めに、我が南洋の委任地を失ふが如きことは、日本人としては、國家國民の爲めに輕卒不信の言動也と云ふ可きである、日本の生命線は、獨り滿洲にのみ限らると云ふが如きことは、事理上何人と雖、承服し得可からざる筈のものである。

唯だ單純に舊式の硬論のみに固著する人は云ふ、「法理上の見解は如何樣にても可也、日本人は唯だ武力を以て我南洋を確持せば、其れにて足る也」と、之れ暴論であり、舊式の力主義であり、大戰を惹起して其の祖國を危ふしたる不賢明なる獨逸の力主義者の不明を模倣せんとするの愚である。其人自身には、滿足であつても、國民の爲めには、危險にして、輕卒極まる主張と云ふべきである。

日本國は、理由なくして、ヴエルサイユ條約を結べる筈なく、又ヴエルサイユ條約は、勝者より强制せられて、不得已日本は之れに屈服したものではない、自ら自由意思にて結べる條約は、自ら正く守るを要する、現在の滿洲問題は、張學良政府が日本との條約を蹂躪したるより生じたる忌むべき事件である、日本人は、條約違反の張學良を攻めつゝ、不法の張學良に模倣するの權利なし、日本人は、聯盟條約を結べる以上、之れを守るを日本人の義務とし、國是とする。

南洋委任地は、聯盟の名に於て、聯盟の爲めに、又聯盟の一員として、日本は引受けつゝある、之れあるが故に、聯盟より脫退すれば、委任地は如何になるべきかの問題を攻究するの必要なるを感ずるは、常識者として當然の事である。之れを感ぜざるものは、非常識である、若しも感じて而して研究し、全然日本に不利なしとの正當なる判斷を下し得ば、其れは國家の爲めに便宜である。然れども、脫退の不利なるを知りつゝ、脫退を叫ぶものあらば、その人は、國家を危地に逐はんとする不誠實の人である、又若しも脫退に關する法理を理解せずして、唯だ俗人の歡呼を受けんとし、脫退を主張するものあらば、其人は賣名者である、又若しも脫退を叫ぶことが、英米其他の列國人を威嚇する所以なりと考ふる人あらば、之れ一種の妄想者也と云ふべきである、何れも皆な非也。

余の研究する所に依れば、日本にして聯盟を脫退すれば、日本は當然に我が南洋の委任地を失ふことになる、南洋の委任地は、南方に對する我が國防線であり、我が國を護る爲めの生存線である、日本は此の國家生存線を失つてはならない。世界大戰の危機に際し、日本は大戰參加の結果此の國防線を得た、之れ重大なる獲得物である、外國なる滿洲國の問題の爲めに、日本は此の重大の權利を失つてはならない、北方にのみ日本の國防線はなく今日にては、北方の脅威よりも、南方の脅威が寧ろ恐ろしいのである、何人も此の脅威を感ぜざるものはなかるべし。

日本人は、眞面目に此の問題を研究するを要し、余としては、護國の念によりて、此の問題を取扱ひつゝあるのである、之れを退嬰的軟論の如くに見るものあらば、之は餘りに事理に不明也と云ふ可き也。

 

二、聯盟脫退論者の責任

聯盟脫退を唱ふる人々は、必ず所信ありて斯く唱へらるゝに相違なし、其故に責任を負ふの決心を以て、斯る重大の問題を取扱はるゝものあること、云ふ迄も勿るべし。

聯盟を脫退せば、如何なる利益が日本に在るなりや、之れ先づ問はざる可からず、答へざる可からざる問題である、此點に關する脫退論者の言責は如何。

或は云ふ、「脫退して亞細亞に歸る可し」と、之れ不可解の言である。日本の聯盟加入は、亞細亞より歐洲に移りたるもの也と云ふ意なりや、之れ意義を爲さゞる言である、日本國獨り聯盟より脫退したればとて、亞細亞の諸邦は、依然聯盟の一員として存在すべし、日本一國の脫退は、全亞細亞の脫退にあらず、唯だ日本國の極東孤立のみ、何の得る所もなし。

或は云ふ、「世界の人は、日本の脫退を憂慮す、其故に脫退論の聲を揚げて彼等を脅迫するは、一外交方策也」と、之れ何等の理由なき自惚である、聯盟より日本を失へば、聯盟の倒壞し消滅し又は無力となるべき理由なし、ムツソリーニの云へる如く、「聯盟は主として歐洲の爲めに特に有效なる存在」たる也、日本一國なしとも聯盟は依然として有效に存在する。

或は云ふ、聯盟を脫退せば、日本は全然自由也と、之れ明かなる錯覺也、聯盟より離るゝとも、國際間に、國際法あり、條約あり、日本は之れより脫するの自由なき也、日本は舊幕府の開國以來、常に國際法を確守し、之れを以て世界に認められたる文明國たるを自覺すること、國民として必要の事である。社會あれば法あり、日本にして世界より孤立し鎖國の一國となるならば問題は別なれども、世界文明國と有無を通じつゝ、日本獨り自由たり得る道理はなし。脫退するも何等の得る所なし、脫退論者にして、若しも得る所ありと云ふ點あらば、之れを明確に日本全人民に指示するを要する。

日本は何故に聯盟より脫退せざる可からずと脫退論者は云ふなりや。

聯盟の意思は、全會一致に依りて表はさるゝを聯盟條約上の原則とする、聯盟の會議には手續の事に關する以外には多數決の壓迫なし、然らば、日本としては日本に不利なる重要事件は、常に反對せば其れにて完全且適法に日本は保全せらる也。日本の外交家若しも卑怯にして、日本に不利なる事に付ても、彼等の云ふ所に同意せるならば、失態は日本に在りて、日本人は其の責を負はざる可からず、日本國民は、斯る失態外交あらしむ可からず、日本側に過失あるにも拘はらず、列國人を責むるは、日本人の不當也、日本國民は、斯る不法背理の言を放つを愼むべし。斯る法則の上に立てる聯盟に關し、何故に今日の日本人は脫退を主張するなりや。

脫退論者は、此問に明確に答ふべき責任がある。

若し夫れ一部の人々にして、自ら快哉を叫び、或は自己の不明に基き、聲を大にして聯盟脫退を叫び、而して一朝其の言の如くに、脫退せざる可からざる危局に陷ることもあらば、其人々は如何にするのか、不謹愼又は研究不足の言行を以て、日本國の人民を煽動し、之れが爲めに、終に全人民をして、世界より孤立せしめ、一切の文化と絕緣せしむるか、或は、終に孤立的戰禍を惹起するが如きこともあらば、人民の蒙る不幸は甚大である、日本人は同胞七千萬人の榮辱を深思すべし、國は民を以て本となす、民族の安榮を信念せよ、硬論に賣名し、或は自己の感情を滿足せしむるが如きことは、之れ古風の言動であり、國民を愚弄視する不誠實と云ふ可きである。今の時代に於て、斯る不誠實の言動あるを愼む可き也、リーグ·オブ·ネーシヨンスは、國民の聯盟也、唯だ一部人によりて全人民は飜弄せらる可き性質のものにあらず。夫れ兵は凶器也、萬已む得ざるに於て、初めて干戈は動す可く、之れを動すには常に日本を正ふし、敵を不正に置くを要件とする、然らざれば必ず日本は敗れん、今の日本人は、戰はずして人の兵を屈する底の賢明あるを要する。

 

三、聯盟脫退と我が南洋の運命

立博士の論に對して草せる「自衞」揭載論文

 

「自衞」五月號に於ては、先頃「外交時報」に出て居た田岡氏の論を讀み、其の反對せざる可からざる點を書いて見たのであつたが、本文にては、「國際知識」に出された立法學博士の說に付て、其の不合理と見へる點又は事實に反すと思はれる點を論じ、以て「脫退論の危險性」を再び國民の前に論述して見る、蓋し國防上より考へ、國家存立上重大問題なるが故である。余に他意なし。

 

立博士の說は、「ドイツの海外屬地に關する一切の權利及權限は、ヴエルサイユ條約第百十九條に依り、主たる同盟國及聯合國たる世界大戰の聯合軍の五强國の利益の爲に抛棄せられ、五强國が共同に割讓を受けたるものと解し得るに至つた」と云ふにある、(同論文、拔刷第六頁)

同博士の說に依れば、「抛棄」と「割讓」とを同一に視るのである。異れる二つの字句を同一意味也と解する事が、第一に、其れが奇怪に余には見へる、特に條約の中に「抛棄」と云ふ文字を擇みて使用したりし理由が、甚だしく不可解に感ぜられる獨逸が其の領土を一方的に、但し「主たる同盟及聯合國の利益の爲めに」として、抛棄した事が、其れが、直ちに五ケ國の領土其者と其儘轉化すると云ふ論は、之れは、抛棄と云ふ文字を、文字の意義の通りに解せずして、「讓渡」と解する見方である。何故に、抛棄と割讓卽ち讓り渡しとを同一の意味に解するなるかの理由を、同博士は說明される事が先づ順序である。此の說明なくして、二つの異れる字句、然かも異れる意義を有する二つの法律的文字を、同一意味に解する事は、蓋し之れ不備である、少くとも、明瞭なる說明とは到底云ひ得ないのである。

又「共同に割譲を受けた」と云ふ立博士の說に依れば、獨逸の棄てた海外各地の領土が、一轉して五强國の共有地となつたと云ふ說明になる、云ひ換へれば、不可分の共有權を、主たる同盟國及聯合國は有するに至つたと云ふ說明になる、然らば、此の不可分の共有地を、分割の手續も採らずして、其中の一國に委任統治せしめたと云ふ事は、先づ第一に、法理上或常識上理解の困難な事柄である、我が南洋の受任地は、「五强國の共有地なり」と見るのである乎、此の五ヶ國の共有地を、「聯盟の名に於て、」日本が行政すると云ふことは、法律上如何なる意義を有するものと見るのであらうか、說明なしには、何分にも、理解困難である、此點に就いて、立博士の明確なる說明を要めざるを得なくなる。

立博士は、「規約の文句に拘はらず、一般に委任統治に關する聯盟の職能を輕視し、一種の監視權を、受任國に對して有するに外ならず」と論ぜられる。(同書同頁)

之れに依れば、立博士は、受任國に單獨の主權あり、と條約の文句を顧みずに、或は重んぜずに斷ぜらるゝものゝ如くである、然らば、委任地の共有地たる前述博士の唱へらるゝ性質は、何時之を失つたものと解釋せらるゝのか、五强國が唯だ單に行政をなす事を受任國に委任すれば、其れにて、五ヶ國の共有權は、喪失して單純領土化すと見らるゝのであるか、「委任」とは然らば何の事なりや、分割の事なりや、或は「五ケ國共同して共有的領土權を單純化して讓渡す」と云ふ意義であるのか、立博士は此點に付て何人にも理解の行くやうに、說明せられ、其の主張を明白にせらる可き責任がある。

又『規約の文句に拘はらず』との立博士の主張は、如何なる理由に依るものであらうか、條約締結國が意思を表示して用ひたるものと見るべき「聯盟の名に於て」又は「聯盟の爲めに」との法律的文字は、「虚僞の意思表示」なりと說かるゝなりや、何故に、列國は斯る虛僞的文字を、重要なる平和條約の中に、態々使用したのであるか、此點に付て、明白に說明せらる可き責任がある。

ヴエルサイユ條約中に用ひられたる文句を重要視せず、立博士の主張の如くに、「文字に拘はらず」に條約を解釋して見たり「抛棄」と「割讓」とを、態々同一意義に取つたりする事は、同條約文の無視と云ふことにはならないであらうか、斯る解釋は、如何なる方式の解釋と云ふものであらうか、

我南洋の受任地は、「五ケ國の共有地」の如くに見る可べきものであらうか、其れでは「聯盟の名に於て」は、全く無意義の條文となり終るではないか、何故に斯く解する必要があるのであるか、斯る無意義の條約を、何故に列國は締結したのであらうか。

又我南洋の受任地は、聯盟に代りて行政するにあらずして、而して此の受任地は「聯盟の物」にあらずして、「唯單に、聯盟は監視權を有するに過ぎない」と立博士の如くに解釋するならば、南洋受任地は、日本の主權の行はるゝ日本の讓り受けたる領土と見る可きものであらうか、其れならぱ、「委任」と云ふ文字は(マンダ)、何の意味を爲すのであらうか、又同時に、右述べたる「共有權」と云ふ解釋とは、明かに矛盾する事となるが、如何に之を說明すべきであらうか、

立博士の研究には、常に敬意を捧ぐる余輩であるけれども、右の如き同博士の說明にては、何分にも余には理解は困難であるが故に、敢て斯く曰ふのである。

立博士は、「委任條項の前文に於て、ドイツの舊海外屬地の施政を行ふの委任は、主たる同盟及聯合國が、之を委任國に與へるに一致した旨を述べて居るのであつて、委任國に施政の委任を與へたのは、聯盟に非ずして、主たる同盟及聯合國であると認められて居るのである。聯盟は、委任地域の施政の委任を受任國に與へたるに非ざること、上述の如くなるを以て」云々と說いて居られる、(同書第七頁)

此主張は、甚だしく不明瞭に見える、「主たる同盟及聯合國が、之を委任國に與ふるに一致した」と云ふ一事は、當時の事情として余の巴里に於て見たる所に依れば、間違のない事實である。併し乍ら、此事實あるが故に、「委任國に施政の委任を與へたのは、聯盟に非ずして主たる同盟國及聯合國である」と論斷するのは、余の見る所にては、失當である、其れは、文句のみに拘泥したる論鋒であつて、事實其者とは、無關係である點に於て、間違があるのである、此點が、專門家以外の人々に誤解を與へたる危險の伏在點であると余には見へる、其の失當なりと認めらるゝ點を次に列記して見る。

(一)、主たる同盟及聯合國が、夫々、委任地域を定むる事に一致したのは事實である。休戰中の一九一九年一月十八日の講和本會議以來、何事も初めは五大國全權によりて定められ、或時には四大國全權によりて定められたのであつた、原則として、五大國の一致なしには、ヴエルサイユ條約は成立しなかつた事は確である、立博士の揭げられた委任條項の前文は、此の事實を明示したに過ぎないと余は見る。

(二)五大國卽ち主たる同盟國及聯合國は初めより特に、「割讓」の方式を避けた、さうして聯盟(社會)を組成し、「此の聯盟よりの委任」として、獨逸の抛棄したる領土を處理するに一致したのであつた、之れ休戰中、列國の間に特に準備せられたる政策であつた、注意す可き點也。卽ち五大國が一致して、「聯盟の委任」となす事に、固く約束したのである。斷じて五大國が、自己等の共有地を、委任したのではない、獨逸より、其の海外の領土を抛棄せしめ、其の棄てられたる土地を、聯盟の領土とし、「聯盟よりの委任」として、其地に適當國をして行政せしむる事に、五大國が一致したのである、之れ講和會議に於ける顯著の事實也。

(三)、クレマンソーは、一九一九年一月十八日、講和會議の議長に推されし折、直ちに起ちて各國代表の前に演說して曰く「國際聯盟は、此處に在る、諸君に在る、我等は協力して此事を斷ぜざる可からず、斯くして我等の目的を達し得べし」と、(拙著「復活の巴里」に此事が記してある。)

此の當時に於ては、何事も、五大國にて定めしものである、クレマンソーの云へるが如く、會議に來れる「代表國卽聯盟」であつたと云ひ得る、五大國の合意して定めたる「聯盟よりの委任」が委任行政の本質である、法律的の形式より見れば、「聯盟の委任」なのである、之れが、其の當時の歷史的事實である、聯盟の成立も、獨逸の領土抛棄も、何れも皆な法律上の形式としては、ヴエルサイユ條約にて、同時に定められたのである事、云ふ迄もない、決してヴエルサイユ條約によりて先づ獨逸の領土を抛棄せしめ、此の棄てられた領土に關して、後から聯盟が成立し、聯盟自らが之を受領して、之を適當にそれぞれの國に委任したと云ふ如きゆるゆるした事實は、無論ない、有り得可からざる事たるは、當時の事情上云ふ迄もなき事である。

(四)、「聯盟の委任」たる事が、斯くも列國間の一貫の方針であり、固き合意なのである。其故に「聯盟は、委任を與へたるに8たる事が、斯くも列國間の一貫の方針であり、固き合意なのである。其故に「聯盟は、委任を與へたるに非ず」との法理的見解は、一九一九年の事實の歴史的討議上よりは、到底出で來り得可からざる說である。

(五)、聯盟とは、「社會」であり、列國の合意を以て、法規によりて組織せられたる社會である、聯盟或は社會と、其の事務所とは、無論同一視す可きものではない、混同してはならない、世上混同視するもの多くある。事務所は、後日に至りて成りし事は、之れ亦確である、聯盟其者はヴエルサイユ條約を以て、成立したのである、但し此の事の確定したのは、少しく其の以前であり、佛國新聞をして、特に此の確定は、全世界に宣傳せられたのであつた、之れは、當時の新聞が證明する所である、當時の新聞を考照する事肝要也。

以上の事實に基き、ヴエルサイユ條約文を其の文句によりて、正しく解釋すれば、南洋の委任は、明白に理解せられ得可し文句其者を尊重して、容易に同條約第二十二條は、明確なる條文として理解せられ得るのである。斯くある可き筈である。『文句に拘はらず』などと云ふが如き、條約文無視に類する見解は、毫も必要生じ來らないのである、總て受任國は、其受任地に付て領土主權を有するにあらずして、「聯盟の名に於て」、又は「聯盟の爲めに」、又は「聯盟に代りて」、其の地方に行政し居るに過ぎないのであり、ヴエルサイユ條約の形式上より見て聯盟に領土主權ある事を、正しく理解し得るのである。但し戰勝の效果として得たる一種の領域であるが故に、且つ「領土の一部分の如くに行政する事」を條約第二十二條を以て約束したる土地であるが故に、聯盟理事會又は總會の一方的都合にて、委任を勝手に解く事を得ずと解するが至當である。實際問題としても、全會一致せざれば、斯る事は條約上爲し得ざる約束であるが故に、委任を受任國の同意なしには、解く事を得ないのである。

併し乍ら、聯盟より脫退せば委任成立の性質上、又條約解釋上、委任關係の解かる可きは當然であり、脫退國としても、受任を直ちに辭するのが當然である、

之れ法理也。以上之れ一點の疑なき「決定的の解釋なり」と余は信ずる次第である。

 

附記

「東京日々」の五月二日號に、「一記者」と云ふ匿れたる人があつて、「聯盟脫退す可し」と國民を煽り、其中に、「反對論者の所論は、「委任」なる日本語の譯文にとらはれ、その歷史的實際問題に觸れざる三百的議論である」

と云ふ唯我獨賢的なる奇怪の文章が揭げられてあるが、斯る獨斷は、恐らく或る雜誌の或學者の論文でも讀み、其儘其れに迷はされた結果でもあらう、「委任なる日本語の譯文にとらはれる」なぞは、苟くも日本の學界には、到底見る能はざる事である、

翻訳られるの急だしたなば「電住が」電して、電視の領亡と轉化す法理上斷じて斯る理由あるべき筈なし。脫退したならば、我南洋の受任地は、如何にする積りか、之れ重大問題也。

一二の學者が、「委任は委任にあらず」とか、「南洋は四强國から付與せられた領土である」とかと主張したる事を輕く信用し日本國にして脫退後も南洋の受任地を、其儘に占有するとせば、機敏なる列國は、之れを是認するであらうか、國民は愼思するを要する。

脫退し了したる日本は、會議に出席する權限なきに至ること必然也、其故に、其他の五十餘の列國は、總會又は理事會を開き、「委任は消滅したり、」或は「委任を解除す」と必然に全會一致以て決議するであらう、其の決議は條約上效力ある事明白である。斯る事なしと何人が敢て云ひ得るか。

此時に當りて、「日本は我が國民は我が欲する所に進むのみ也」と豪語するならば、其は不法であり暴力主義であり、全世界は、敵とならざるを得ないであらう。日本が故更に全世界に向つて憎惡を挑發する事となる。非也。

日本人は、斯る豫見し得る危險の事態に對して、敢て脫退を叫ぶのである乎。

强いて世界を敵にしたいと若しも望むならば、脫退なぞと稱して、聯盟仲間から逃げ出すのは甚だしく弱行である、脫退論は、要するに退嬰不明の主張であり、日本國の國防線を失ふ危險の伴ふ議論である。南洋は、國防上重大の土地也、斯る主張は愼む可きものであると余は信ずる。

聯盟には、「全會一致」と云ふ鐵則がある、日本は之を嚴守すべし、我が代表が、出席を棄權して卑怯にも遠吠へしたり、列國の委員が反對するから、「うるさし」と稱して、日本人が脫退を叫んだりするのは、之れ退嬰である。反對すべきは、無遠慮に法理上斷じて斯る理由あるべき反對せよ、十三對一にても構はない、五十三對一でも何等の心配はない、其れが條約嚴守なのである、條約は嚴守すべし。「歐洲の聯盟」であるとか、「平和の殿堂でない」とかと今更ら愚痴をこぼすのは、賢明でない。

日本代表を萬事につけて困ましめ、日本人全體を怒らせ、日本國をして聯盟より脫退せしめ、南洋の委任地を巧みに取り上げてやらうとの祕策は、必ずしも外人になしと斷言は出來まい、外交は冷靜にして、賢明でなければならぬ、然らざれば危險は國民の上に降る、國民は三省を要する。(五月二日稿)

四、再び聯盟脫退と我が委任統治地との關係を論ず

立博士の新說に對しての研究

國際聯盟を脫退すれば、我南洋の國防危險に陷るとの余輩の主張に對しては、論界には反對する人もあつた、人各々見る所あり、言論は自由で宜しい、余は余の確信を述べて、憂國者に訴へるのみである、理否は自ら判明すべし。

最近立博士の余に送られたる、「委任統治制度論」と云ふ研究小册子がある、其中には、「脫退後の委任繼續の間題が、法律問題として、疑問の餘地なしと斷言する如きは、極めて危險である」と(第四二頁)論じてある、又「受任國の脫退に因り、委任地の施政につき、最早規約及委任條約の拘束を存ぜざるものに至るとせば、主たる同盟及聯合國が、委任を付與せる際に於て、當事者間に自ら認められたる委任の效力存續の默示的條件を缺くに至り、委任は當然無效となるとの議論も主張さるゝことあり得べきである」と(第四三頁)ある。

斯くして日本の有力なる學者中にも、新に「脫退は委任地を失ふの危險あり」との說の行はるゝに至りしことを見るのである

八月十四日の東朝夕刊にも、「ジユネーヴ電報」揭げられ、「日本が若しも脫退すれば、聯盟の委任統治區域たる太平洋上のマーシヤル、カロリン諸島を、當然聯盟に返還せねばならぬと解釋し、日本は太平洋作戰上、此の重要なる地點を放棄するに忍びず、故に輕々に聯盟を去ることはあるまいとの結論を支持してゐる」とある、注意すべし重要の電報なり。

之れ日本に對する世界列國の聲であると見る可き也。

余の當初主張したる言論は、今や斯くして內外の聲となりつゝある、余は此事實を全國民に向つて注意するの義務を有する國民は空論に飜弄せられて居るべき秋にあらず。

結論は近づきしも、立博士の議論の筋途は、依然として余とは離れて居る、同博士は以前の說を持續し、敷衍し一部改善せられたものである、余は同博士の研究に敬意を捧げる、併し乍ら、余の見る所では、立博士の議論には根本に誤りがある、左に再び此等の諸點を論じて見る、蓋し時局上國民の爲めに重大なる問題なるが故である。唯徒に法律上の論爭を好むが如き輕卒の考慮に出づる次第ではない。

注意 ヴヱルサイユ條約關係條項は本論末尾に附記す

立博士は、ヴエルサイユ條約第百十九條のみに甚しく重きを置かれ、第二十二條は甚しく輕く見られ、明確なる條文の文字其通りにさへ解釋せられないのである。用語の一種の無視に近し。余としては、斯る解釋は、適當にあらずとなすものであり右二ケ條共に各其文字を生かし、文字に卽して正實に解釋すべきものと信じ、而かも斯くして、條約の理義明白となることを信ずるものである。

一九一九年列國人が、智能を絞りて作り上げし、ヴエルサイユ條約文に付、其の撰用せられたる文字を、無視又は輕視するのは解釋と云ひ得ずして改作である。余輩は斯ることをなすは不當なりと主張する、「文字に拘泥して、獨斷的に斷定せんとするのは」立博士の云はるゝ通りに「穩當を缺くこと明白である」,余は斯る拘泥を爲さざること勿論也、又余の爲すところは勿論余は此事實を全國民に向つて注意するの義務を有する)-獨斷にあらずして、條約を締結せる列國人の意思の尊重也、文字の輕視又は無視こそは、特種の「拘泥」にして、「獨斷」であると余は見る。

ヴエルサイユ條約第百十九條には、明白に「抛棄」となり、「割讓」となし、抛棄と云ふ文字を特に擇びて使用せるは、世界列國の旣に周知の如くに、豫め主たる同盟國間に於て、獨逸の海外領土の處分方法を約束し、之れを各々戰勝國の領土となさずして、「聯盟の委任地」となすべしと定め、其の條約案卽ち第二十二條既に成りたりしが故に、ヴエルサイユ條約第百十九條に於ては、主たる同盟國は、獨逸より其海外領土を讓り受くるの文字を使用する能はずして、唯だ「抛棄する」の文字となつたのである、割讓にあらざること明か也、此の事實の明白にして、事理の明確なる「抛棄」に關して、之れを附加的言明なしとの口實を以て、純粹の「割讓」と解するは、其れが何人の解釋たるとを問はず、甚しく獨斷であり、此の抛棄の結果として當然に「主たる同盟國の共同領土となれり」と解くが如きは、當時の事實と事理とに反するもの也と余は見る。

而して第二十二條に付ては、主たる同盟及び聯合國の約束に基づき「聯盟の委任地」と定りしが故に、「聯盟の名に於て」との適當字句の使用となり、此の條文は、意義明白となるのである。此の文字を日本人として勝手に後日に改作し、或は之れを輕視するは許されざることであり、又何等の必要なきことなのである、條文其者の尊重は斯くして行はれ、列國人の明示の意思は、其儘に尊重せらるゝことゝなるのである、「聯盟の名に於て」とある其文字の儘に、解釋することは、條文解釋として妥當の解釋であり、其處に何等の「拘泥」がない、其處に一點の「獨斷」なきことは、明々白々の理也、余は斯く信ずる。

立博士も、「抛棄は、割讓を意味せずして、該地域を處分するの權能を委ねるの意を表せることがある」(第七頁)と論ぜられ、而して、「何等の附加的言明なければ、土地の某國の爲にする抛棄は、該土地の某國への割讓と認めて差支なきものと信ずると說かれ、獨逸の海外屬地に關するヴエルサイユ條約第百十九條の「抛棄」には、何等の附加的言明を有せざるを以て、割讓と認めて差支なきものと言はねばならぬ」と斷言して居られる。

同博士の言の如くに、附加的言明は、第百十九條にはない、併し乍ら、同一の條約たるヴエルサイユ條約第二十二條に於て嚴正に言明がある、而かも、世界周知の事實として存在する委任に付ての言明であり、獨逸の海外屬地は、戦勝国の領土となり得ずして、「聯盟の委任」として、某々國に「委任統治」せしめらるゝ事が、確言せられてある、加的言明以上に、重要なる言明と云ふべく、此の言明ある以上は、割讓にあらずして、「處分の權能を委ねたるもの」卽ち「抛棄の文字通りなり」と解するのが、立博士としても理論なりと余には見える。「附加的」と云ふことにのみ拘泥するは正しからざるべし。

アルサスローレーヌの如き讓渡せる土地に付ては、「佛國の領土に復歸せしむ」とありて、明白に領土恢復を規定してある、「放棄」と云ふやうな文字は其處には用ひてない。靑島に付ては、日本が支那に還付することを約束しあるを以て、讓渡とせずして、放棄とある、理義明白也、讓渡となす可らざりし也。

メメールに關する條約第九十九條の如きは、讓渡の文字用ひられずして、抛棄とある。明白に讓渡にあらざるが故に、抛棄と云ふ文字を使用して居るのである。理義正し。

第三十二條及第三十三條に規定せらるゝ係爭地モルスネに關しては、讓渡と云ふ可らざるものなるを以て、抛棄と云ふ文字を用ひたのである、第三十四條も同一に見て可なるべし。總て平和條約上の文字は、其の使用法正確であると余には見える。抛棄と讓渡とは同一視す可き理由なし。

 

若しも、立博士の主張の如くに、主たる强國の「共同領有地」として、獨逸より割讓せられたるもの也と斷定するならば、此地方の人民は、日英佛伊四國の共同臣民也と見るべきものなるべし、「受任地の人民は、受任國の臣民にあらず」、之れ立博士も言明せらるゝ通りである(第三八頁)、又同博士の云はるゝ如くに、「土地割讓の場合には、其の地方の住民は、新領土權國の臣民となるべし」、然らば日英佛伊を其の本國となす人民が、今日世界の各地に(亞弗利加にさへ)散在することいなる、果して如何、此の疑問解決せざる可からず、余は委任地の國民は、聯盟の人民と解するのであり、從つて聯盟は、其の人民の幸福の爲めに、受任國を監督するもの也と解釋する也。理義明白也。

四强國共同の臣民に關して、立博士の云はるゝ統治主權なき國際聯盟のみが獨り之れを監督し、其の福祉を圖ると云ふことは、理解し難き事である、又日本は、此等地域の領土權の共有國にてあり乍ら、其の臣民に關して、聯盟より監督せらるゝと抛棄とある。明白に讓渡にあらざるが故に、抛棄讓渡と云ふ可らざるものなるを以て、抛棄と云ふ文字抛棄と讓渡とは同一視す可き理由なし。云ふ事も亦全く理解し難きことである、又共同領土權利者たる四强國が、其の自己の臣民を毫も顧みることなく、受任國に放棄し、其の臣民の福社に付ては、聯盟の監督に放任し、其の臣民の上に、何等の權利義務を行はざるに至つては、領土權者たるの責任を解せざる無道不法の領有國なりと云ふことになる。法理觀念上今日の時代に於て、斯る不合理の事態の文明國間に存在し得る理なしと余は信ずる。

又獨逸は其海外領土を、日英佛伊に讓り渡し、四國は共同領有しつゝあるものと見るならば、日本は、全世界の各地に、多くの領土を有しつゝある事となるが、斯る觀念が、果して日本の臣民中に、實在するものであらうか、知りたい。

又共同領有地は、向後若しも委任制の廢止せられた場合には、如何なる風に、其の持分は分配せらるゝものであらうか、不平等の分配では、我等日本人は滿足し得られない、現在としても我等の持分は、如何のものであらうか、我等は正確に知りたい。重要の事也。

 

立博士の引用せらるゝ「委任制度に關する公正解釋」に付ても、余としては、上述の解釋を以て、之れ亦明白に解し得るのである、立博士の解釋を以てせば、其處に無理があるやうに余には見えるのである。左に此事理を說述すべし。

一九二〇年十二月十七日附のC式委任條件を定めたる委任條項の前文に於て、左の如く定められてある。

『國際聯盟理事會は、

一九一九年六月二十八日ヴエルサイユに於て署名したるドイツ國との平和條約第百十九條に依り、獨逸國は、太平洋赤道以北に位する諸群島を包含する其の海外屬地に關する一切の權利を、主たる同盟國及聯合國の爲めに抛棄したるに因り、主たる同盟國及聯合國は、同平和條約第一編第二十二條に準據し、前記諸島の施政を行ふの委任を、日本國皇帝陛下に付與することに一致し、且右委任統治條項を、左の通定むべきことを提議したるに因り、日本國皇帝陛下は、前記諸島に關する委任を受諾するに決し、且左記の規定に準據し、國際聯盟に代り、(原文國際聯盟の名に於て)該委任を實行することを約したるに因り、前記第二十二條第八項は、受任國の行ふ權限、監理又は施政の程度に關し、豫め聯盟國間の合意なきときは、聯盟理事會は、國際聯盟に代り、(原文國際聯盟の名豫め聯盟國間の合意なきときは、聯盟理事會は、之を明定すべきことを規定するに因り、

前記委任を確認し、其條項を左の如く定む(以下省略)』

以上の「委任條項」を詳讀するときは、主たる同盟又は聯合國が、直接に南洋を日本に委任せるにあらずして、第二十二條によりて、委任せられたるものなることが明瞭となるのである、委任條約の立案制定者は、素より主たる同盟及聯盟國たること、當時の事情上之れ亦明にして、此事實を、此中に明記しあるに過ぎないものと余は見る、然るに、之れを立博士は、

「是れ聯盟規約第二十二條に依る所謂委任其のものは、主たる同盟及聯合國が、ヴエルサイユ條約第百十九條に基く權利に因り、之れを受任國に付與し、聯盟理事會は、之を形式上確認するに止まるとなすものである」と固く主張せられ、確定不動の明解の如くに、力說せらるゝのであるけれども、其れは、「抛棄」を「割讓」と獨斷したるより生ずる必要上の便宜解釋であるべきも、委任條項の正解とは、余としては見るを得ないのである、「主たる同盟國が、直接委任したり」と云ふ如き文言は、毫も見當らないのである、之れに反し、第二十二條が、委任を律する本則たることを、明に示されて居るに過ぎないのである、若しも、主たる同盟及聯合國の共有領土を、同盟及聯合國より直接日本に委任せるものであるならば、日本が「國際聯盟の名に於て」又は「國際聯盟に代りて」受任地に施政する理由があり得ない、日本が聯盟の名に於て委任地の施政を行ふことを約束せるは、「聯盟よりの委任」なるが故でなくてはならない、重要なる委任狀を、文明國間に於て認むるに時に、其の使用せらるゝ「名に於て」の文句が、虛僞又無意義のものであるが如きことは、あり得可からざることであると余は信ずる。

斯く解釋して、玆に第百十九條第二十二條共に生き、「委任條項」も理義明白のものとなるのである。

委任地は、受任國の領土にあらず、明かに委任統治地也。

委任地は、主たる同盟國及聯合國の共有地にあらず、斯る事實なし、斯る條文もなし、斯る解釋あり得可からず、委任地は「聯盟の領土」として、其の領土の統治を、日本に委任したのである、

之れ聯盟條約の規定する所であり、列國の合意せる所である。

之れを或は「聯盟主權說」と名づけられる。

此說に依ることは「有害の說也」と、立博士は特に言を更めて主張せられる(末尾及第一三頁)、何故に有害なのであらうか委任地制度は、特に割讓を避けたる方式の上に立てられたる制度であるが故に、領土の如く其の統治する國の爲めに、堅實性あるものにあらざること云ふ迄もなし、列國は、好んで此制度を擇み之れを行ふことを約束したのである、其故に正しき理由ありて、委任を解かるゝことありとしても、其は初めより自認したるべき事である、之れを無理に、割讓せられたる領土と均く永遠に確持せんと試むるのは、條約尊重上有害と云へる、條約は守らざる可らずとの主張の下には、條約は重く、曲解は有害也と云はざるを得ない、列國が初めよりの合意は、正確に守るべきであり、征服慾の爲めに、動かさるゝは誠實でない。

右の見解は其れは別論としても、國際聯盟に於ける合議は、「全會一致」たるを要する條約なるが故に、委任地に關して、受任國が自己の主張を確持し、自國に理由なき不利なる提議は、常に反對し盡せば、其れにて決議は不成立となり、從つて聯盟の「一方の意思にて、受任地が取上げられる」やうな事は、生じ得ない筈である、然らば、聯盟主權說を持したからとて、受任國が、突然其の受任地を失ふが如き危險はなく、何等の有害はあり得ない筈である、立博士の有害と云はるゝのは、蓋し此の主權說は何事も此の主權者の命に從ふもの也と解せらるゝの結果の如くに見える、其れならば、斯る主權說は有害であらう、去り乍ら、聯盟主權說とは、「聯盟に委任地の領土主權あり」と解釋するだけの事であり、列國は、聯盟の配下に臣從して立つと云ふ意味ではない。害なし。

有害なりと云ふ點より云へば、「聯盟は、委任者にあらず從つて聯盟より脫退するも、委任地を失ふ理なし」と昴然として力說する人の主張は、甚しく有害なるものである、何んとなれば、斯く斷言すると同時に、其等の人は、結局は、脫退に由つて委任地を失ふの危險に陷ることを認めざるを得ないのであり、其の言ふ所全く空論なるが故である、斯る空論の行はるゝことは、甚しく國家國民を危ふせしめる、斯る議論は有害論として排斥せざる可らず。

要するに、「國際聯盟の委任」によりて、日本は、南洋の委任地を聯盟の爲に統治するのであり、列國は此の「聯盟に依る委任」を認めて居るのであり、日本は聯盟の名に於て、聯盟の爲めに、聯盟に代りて、統治することを條約せるのであり、聯盟の監督の下に、受任地の施政を行ふのであり、聯盟國としての關係に於て、委任を引き受けて居るのであり、斷じて日本の領土にあらず、絕對的排他的に日本の權力が行はるゝにあらず、唯だ日本の「領土の一部の如くに、」取扱ふことゝ、「日本の法令を行ひ得ること」を條約したるに過ぎないのである。(第二十二條第六項)

其故に、日本が自己の勝手に、聯盟條約より離脫し、聯盟を脫退すれば、日本は、當然に、受任の權利なきに至るは、明々白々の理である、之れ正しき解釋なりと余は信ずる。

之れに反し、「聯盟よりの委任にあらず、五大國の共同領土也、五大國よりの委任也、聯盟より脫退するも受任の權利は依然存續す、」云々の議論は、條約の文字を、其儘に尊重して解釋したるにあらずして、條約文の改變又は輕視によりて、解釋し得るものであり、不當の解釋であると余は見るものである。一九一九年一月以來緩る緩ると四ケ月に亙りて、全世界人の輿論に訴へ、余も亦當時日に日に種々其の文意を研究し、內外人に論文をも示したる一人であり、世界人は其の智能を集めて、愼重研鑽の上に成りし聯盟條約の條約文である、此の條文に關して、「聯盟の名に於て」又は「聯盟の爲めに」の文字は、文字通りに解釋す可らずと云ふが如きは、余としては、自己侮辱であり、世界人に對しても、一種の輕侮たらざるを得ぬ如く感ずる、余は賛する能はず、而して聯盟を脫退するも、受任權を失ふ理由なしと固く主張しつゝ、「脫退すれば不便也」「危險伴ふ」「國際司法裁判所に於て斯る主張は、勝訴し得ざるべし」と說くが如きは、日本國の爲めに危險にして、有害の議論なりと云はざるを得まい、余は敢て斯く云ふものである。(立博士論文參照)

二十二条 三十二条 三十三条 三十四条 百十九条