変人が語る自由連合協定の意味
ミクロネシア3国と米国が締結する自由連合協定。私はミクロネシアの海洋安全保障を管理するに当たり日本も米国と共同でミクロネシア3国と自由連合協定、もしくはそれに準じる協定を締結したらどうか、できれば医療・教育・就労などの機会も含めて検討してはどうか、という案を持っている。
が、変人扱いされるから公に言うな、とある方からアドバイスいただいた。
自由連合協定を多分誤解しているのである。それも2重に誤解しているのである。
自由連合とはなにか?
国連の非植民地化の道として3つの選択があった。独立、自由連合協定、若しくは独立国に統合される事。
結果80近い独立国家が出来たようだ。自由連合となったのはクック諸島、ニウエ、そしてミクロネシア3国だけ。
自由連合協定は自治権は持つが経済的、安全保障上旧宗主国からの支援を必要とする地域の選択である。旧属領が自らの選択で取る道である。
だから旧宗主国の新たなる植民地化政策ではない。少なくとも表面上は。
歴史的流れを矢崎論文を参考に追ってみよう。
自由連合ーfree associationの国際法上の意義と形態は1953年の国連総会決議の付属文書で初めて説明されている。
新たに基準が明確にされたのは1960年の国連総会決議。それを受けてクック諸島がニュージーランドとの自由連合を検討し始め、1965年に国連基準に基づく初めて自由連合国となった。続いてニウエが1974年に同じくニュージーランドと締結。
他方、国連信託統治下にあったミクロネシアは1964年にミクロネシア人が立法権を行使するCongress of Micronesiaを設立。1967年にFuture Political Status Commissionが設置され、1969年にクック諸島、西サモア、ニュージーランド等へ調査旅行をし、自由連合が望ましいとの報告書を作成した。ミクロネシアの人々が自ら望んだ地位なのだ。
当初アメリカ側は戦略的意味から反対。属領か現在マリアナ諸島のようなコモンウェルズの地位を主張した。1969年から1976年の間の協議で現在の自由連合協定の基になる米国の安全保障を重視した、即ちクック諸島やニウエがニュージーランドと締結したものとは全く違う、そして国連が目指した非植民地化の選択とは外れた「自由連合」がミクロネシアに誕生したのである。それはミクロネシアを守るための自由連合ではなく、米国を守るための軍事的アクセスを認める内容だ。
現在、敵国日本は米国の重要な同盟国となった。冷戦も終わった。米国の軍事費も大幅に削減される。米国にとってのミクロネシアの戦略的意味は再考される時期に来ている。米国はクック諸島に近い自由連合を検討してはどうか?それも同じ太平洋を共有している日豪を含める形で。変人は私だけではない。
笹川太平洋島嶼国基金の2代目運営委員長でもあり、樋口レポートの実質的執筆者でもある渡辺昭夫先生は太平洋島嶼国を国際的な離島政策の対象としたらどうか、という案をもっていらした。現運営委員長の寺島さんのご意見もこれに近い。
ニュージーランドのクック諸島への対応は寛容だ。人道的だ。見返りを一見求めていない。
ところで、ニュージーランド、クック諸島、ニウエのが元首は誰でしょうか?イギリスのエリザベス女王なのである。(豪州、PNG,ソロモン諸島、ツバルも)
イギリスのポスト植民地政策がここにある。逆説的だが非植民地化によって、新たな植民地政策を取っているのだ。
ここに私を変人扱いする人の2重の誤解がある。
ここから先はEHカーの『平和の条件』を再読してからまた書きたい。
<参考資料>
矢崎幸生、『ミクロネシア信託統治の研究』お茶の水書房、1999年
矢崎幸生、「第10章 ミクロネシア連邦の自立の過程」、『マタンギ・パシフィカー太平洋島嶼国の政治・社会変動』アジア研究所、1994年
"The case for justice for Micronesians in Hawai'i", Hawai'i Appleseed Center for Law and Economic Justice, December 2011
Allison Quentin-Baxter, "The New Zealand Model of Free Association: What does it mean for New Zealand?", Victoria University of Wellington Law Review 2008.