8年間の博士論文執筆はアマルティア・センの開発論、特にCapability Approachという『自由と経済開発』との対話であった。
この概念は一見簡単に見えて実は奥が深い。
先日手にした山形浩生さん訳の『インドから考える』(NTT出版 2016年)にもわかりやすく書かれているので引用したい。
「開発の評価は、人々が送れる生活や、実際に享受できる自由と切り離すことはできない。(略)開発は、単に利用されるだけの味気ないモノの蓄積、例えば国民総生産の増大とか技術進歩だけで判断されるべきではない。責任ある人間にとって、最終的に注目すべきは自分が価値を置く理由のあることを行う自由があるか、ということでなければならない。」(『インドから考える』119頁)
ある時この学会がある事を知って迷わず入会した。
そして、今回一橋大学で年次学会があり、アマルティア・センも来ると知って迷わず参加を申し込んだ。センの議論はシンプルなのに奥が深いのだ。法政大学の絵所先生だったと思うが、10年位学んでやっとわかった、と思ったとたんわかっていない事に気付く、そんな議論なのだ。
よって、私の今回の学会への期待は大きかった。
まず驚いたのは、自分がCapability Approachを開発学の文脈で学んできたので、教育、保健と言ったありとあらゆる分野でCapability Approachが応用されている事に、正直ついて行けなかった。
そしてこれはネガティブな感想なのだが、学会発表の多くがCapability Approachをきちんと理解していないのではないか?という疑問であった。例えば情報通信技術が使える事自体をCapability と位置づけているのだ。
さらにネガティブな感想として、このような疑問を学会で投げかけると、Capability原論主義者と批判されることである。当方はICTに関心があったのでその発表を中心に聞いたが、下記の発表についてこの研究がCapability Approachとどのように関係があるか質問したところ、回答を得られなかった。
それだけではない。チェアの松蔭大学 松浦広明氏から、この研究はすなわちモロッコの小学生達がiPadが使用できる事がCapabilityである、と聞いてさらに驚いてしまった。
iPadやインターネットが使える事自体はCapability ではないのである。技術はあくまでツールである。これを自分の博論で繰り返し述べてきたのでここは譲れなかった。
しかし、他の発表にもこのような見解が多く、一体Capability の研究がどうなっているのか学会参加者に聞いてみた。
かなりの量の研究が間違ったCapability で議論されていること。しかも既にこの間違った理解で博論を書き、教授になっているので反論は面子を潰す事になること。たまに「Capability 原論主義者」と逆になじられること、などを伺った。
ノーベル賞受賞者のセン自身や彼のCapabilityや自由の議論が世の中に影響があるように思えるので、ここら辺の修正がうまくされる事を望みたい、という事を学会事務局の方と最終日に話ができたことは幸いであった。