やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

『国際海洋法の現代的形成』田中則夫著(読書メモ)その5

『国際海洋法の現代的形成』田中則夫

第4章 深海底の法的地位 ー 「人類の共同財産」概念の現代的意義

1978年の論文である。深海底の議論がまだ収束の方向さえ見えていない頃、ではないか?

1967年の国連総会第22会期で深海底とその資源は「人類の共同財産」であるとの小国マルタのパルド大使の演説の後、伝統的海洋国際法の全面的再検討を迫ることになり国連海底平和利用委員会の討議を経て、1970年国連総会第25会期で「深海底とその資源は「人類の共同財産」であることが、国際社会の意思として決定されたのである。」(101ページ) これは生物多様性を含むかどうか議論のあるところだが国家管轄圏外の深海底の存在が確認され、伝統的な「公海自由の原則」が適用されず、深海底における国家活動が国際制度によって規制されることが合意された。(101ページ)

人類の共同財産の概念は法的思考を通じて捻出されたというより、むしろ深海底制度を樹立するためのスローガンとして打ち出された。にもかかわらず法的評価の対象となっており単に空虚な美辞麗句として片付けることをはできない。(102−103ページ)

「換言するならば「人類の共同財産」概念は伝統的海洋国際法の何に対置されようとしているのであろうか。こうした問題を解くためには「人類の共同財産」概念が登場し、深海底制度が討議される前の段階、すなわち伝統的海洋国際法における深海底の法的地位を明らかにしておく必要がある」(103ページ) 以降、ドーバー海峡のトンネルの議論が紹介される。

106ページ 公海に置いて保護されねばならない自由とは、交通、貿易、商業、漁業。

107ページ ベーリング海のオットセイ裁判(イギリス対アメリカ)

110ページ 定着漁業を行う国家の排他的権利 

      先占説ー公海の海底を res nulliusと考える 時効説ーres communis

112ページ 1950年に大陸棚の法的地位が審議された。

1.res nullius (全ての国が開発権を持つ)

2. res communis (沿岸国が排他的管轄権を行使できなくなる)

3. ipso jureに沿岸国の管轄権の下に服する、

4. 天然資源の探査、開発という限られた目的のために沿岸国の管轄権の下に服する。

3. ipso jureが採択された。

122ページ 「深海底の開発は、大陸棚の開発とは異なって、上部水域の使用の自由を不可避的に侵害する性質ものでなく、「公海自由の原則」の下で全ての国民に開発の自由を認めることも不可能ではなく、したがって上部水域の使用の自由を侵害するが故に大陸棚制度が樹立されねばならなかったといった必然的要請は深海底開発の場合には存在していない」 

深海底制度の理由が途上国の存在であることが次の3節で議論される。おもしい!やはり途上国の存在それ自体が深海底、BBNJの議論の基盤だ。

 

125ページ 先進国が深海底制度を必要とする理由は、公海自由の原則の下では非排他的な権利しかなく深海底の開発を有効に行えない。発展途上国の立場からすれば、自由競争をする能力の機会もない。そもそも「公海自由の原則」は歴史的にヨーロッパ諸国が資本主義の発展のために公海を商業、貿易のための自由に開放する必要があったからだ。

126ページ 深海底制度に関する先進国と途上国の必要性は根本的に異なっているが開発の自由競争を保証する「公海自由の原則」を排除しようとする点で一致。それが深海底制度樹立を担保している。

127ページ 発展途上国は経済的立ちおくれの原因を植民地支配にあったとし、歴史的に正当な権利として深海底資源の利益配分を受ける、と主張。(そんな言いがかりだ!BBNJと同じじゃん)従ってその主張は単なる抗議概念ではなく発展途上国の経済的自立の要求を示すイデオロギー的概念。(やはり開発論になる)

131ページ 「人類の共同財産」は観念的には理想主義的側面がある。これはボルゲーゼの1968年の提案のこと。理想主義者。世界政府を訴えていた。この理念がいかに海洋国際法に反映されるか、動向に注意。(動向、気になる。どう議論、認識されていったのであろう?BBNJの議論を見ていると理念、イデオロギー、理想主義、は悪化しているのではないかと思える?理論的議論がされているようには見えない。それはもしかしたら海洋資源で経済的独立を期待していた発展途上国、特に小島嶼国が、現実的には何も得られていない、という不満があるんではないだろうか?やはりここで開発論につながってくる!)