財団に入って1年も経たずに基金の目的、ガイドラインを書き上げて、日米の衛星通信国際協力開発につながる会議を成功させた頃は、次の課題は明確であった。
国内に専門家委員会を立ち上げ、具体的にどのように支援すべきか研究し、 USPNet支援案を作成することだ。その頃には大体の専門家を抑えていて、「太平洋島嶼国遠隔教育研究会」の案を作成した。
ところが、である。財団のおじさん、長尾真文さんの茶々が入った。研究会に加藤秀俊先生を招こう、と。
私はすでに存じ上げていた電気通信大学の小菅敏夫先生にお願いしたかったのだ。しかし実ををとるからには財団のおじさんに花を持たせるか、と諦めて、長尾さんと加藤さんのご自宅まで行って交渉した。
私は、世の中の笹川バッシングをあまり知らなかった。特に学者の笹川アレルギーは強く、断られるだろう、と財団のみなさんが想像していたそうだ。ところが加藤さんは二つ返事であったのだ。「是非やりたい」と。
長尾さんの財団での報告が見苦しかった。
「早川さんが、ニコッと笑うと加藤先生が了解しちゃうんだよ。女の子は得だね。」
ちなみに長尾さんは太平洋島嶼国の「た」の字も、衛星の「え」の字も知らない。私と協議したこともない。加藤さんとの交渉で長尾さんは一言もサブスタンスのある発言をしていない。
私は加藤さんの論文は全て目を通していたし、関連論文も英和100本位はその頃には読んでいた。5年後には2つ目の修士論文を書き、10年後には博士論文を書き出すほどの知識があった。
おじさんの負け惜しみか、と捨てておいた。加藤さんが了解した事で2千万円くらいの事業費がついたのだ。ところが財団の総務部の御局様が、わざわざ私のところまできて「邪道よ。認めないわ。」と言いにきたのである。ああ、醜い嫉妬。
予算が無事に理事会を通って、1回目の研究会が開かれた。ここで加藤さんが手のひら返しを、事務局委託をしていた外務省の外郭団体APICと共謀したのだ。
「この研究会に笹川平和財団のかたが参加するのは迷惑です。」
劇的展開が。委員の一人だった電気通信大学の田中正智先生が
「我々は加藤さんがこの研究会に参加することが迷惑です。」
と言ってくださったのである!そして他の委員は誰も異議を唱えなかった。みなさん私の苦労を知っていた先生ばかりだったのだ。
この研究会は笹川平和財団の自主事業、即ち私がゼロから立ち上げた研究会であった。加藤さんはAPICは何を勘違いしているのだ。APICは全然役に立たず、1年で事務局委託契約を中止。
私の当初の思惑通り、電気通信大学の小菅教授を委員長にお招きしこの研究会は開始した。そしてUSPNetの申請案件策定を支援し、1997年の5年後にはODAにまで持って行ったのだ。第一回島サミットのメイン事業となった。
1989年1月にフィジーのカミセセ・マラ閣下が笹川会長に太平洋島嶼国のために衛星を打ち上げて欲しい、と要請したことで開始したこの仕事。私の人生の勲章です。