やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

シュタイン、マルクス・エンゲルスと迎える御代がわり(9)

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社会の概念と運動法則/ ローレンツ・シュタイン著;森田勉訳

 同志社大学の図書館にはシュタインの『社会の概念と運動法則』が2冊あった。どちらを借りようか一瞬迷ったが両方借りてよかった。1991年に出版された森田勉訳は、1949年、昭和24年に出版された猪木正道訳と五十嵐豊作訳、そしてキース・メングルバーグの英訳を参照して平易な現代語訳をされたと言う。なぜ同じ年に猪木正道氏と五十嵐豊作氏の和訳本が出たのであろうか?昭和24年は小泉信三の「共産主義批判の常識」が出版された年でもある。

 1991年出版の森田勉訳本にはシュタインの生涯と言う100頁近い文章が付録として掲載されており、そこにマルクスとの関係も書かれている。今回は本文ではなくこちらの付録と10頁ほどの訳者解説だけ読んだ。

 訳者解説は「社会科学の建設者、シュタイン」と「シュタインと日本の関係」の2部で構成されている。

 「社会科学の建設者、シュタイン」では19世紀半ば社会科学の創造がドイツで可能となった背景には先進国イギリスとフランスの進んでいた資本主義の利点と矛盾を距離を置いて、理論的に観察した結果である、とする。そこには自律的な市民社会を国家と社会との明確な区別と共に必然的関係を理論的把握が可能になった、と指摘する。(142頁)

 その中で社会科学創造者としてシュタインとマルクスがいたが、マルクスは政治的利用のために純粋なアカデミズムを装う訓詁注釈学「マルクス学」に至るまで「歴史的な定位と評価を無視した異常な「信奉・崇拝」の果てに、プロレタリアート革命、プロレタリアート独裁が破滅しマルクスの価値も下がり、マルクスの陰に隠れていたシュタインに、ドイツを中心に一気に注目を集めている。(142−143頁)

 さらに森田は、同時代を生きたシュタイン・マルクス共に(マルクスが3歳年下)封建的絶対主義のプロイセン国家体制に敵意を抱きドイツの近代化を熱烈に志向した。そして両者に共通する根本的問題意識は資本主義の発展を認めた上で不可避的に生まれるプロレタリアートなどに対して理論的対応を検討したのである。

 このような二人の類似性に対し、シュタインがマルクスと大きく違うのは共産主義革命とプロレタリアート独裁に対する強烈な批判である。この見解ゆえにシュタイン学説はビスマルクの社会政策という形で現実の政策に結実した。シュタイン学説は今日の福祉国家理論を先取りしているとも言える。

 共通の問題意識を持っていたシュタインはフランス革命から18481849年革命を考察する機会を得てマルクスとは対照的な社会諸科学の建造を行った。

 後半の「シュタインと日本との関係」は前述の瀧井論文と重なる部分が多いので省くが、一箇所だけ書いておきたい。シュタインは憲法、行政だけでなく日本の外交政策にも論及し日本が極東—太平洋の有力な海軍国に成長するよう勧告していたのである。

 このように日本の新しい国家形成に貢献したシュタインを明治天皇始め、伊藤、山縣、陸奥らは賛嘆し、シュタインが亡くなった1890年には日本で神道式の祭式が、わざわざ伊藤の指示で祝詞も作られたほどである。(この箇所は瀧井一博、「日本におけるシュタイン問題」、27−28頁)

 

 同書付録の「スタインの生涯」も興味深いが、息切れしてきたので、荒くまとめさせていただく。

 シュタインが明治天皇までも動かす貢献をした大学者であったこと、自らその出生をあまり語らなかったこと、愛弟子や学閥を作らなかった事もあり、シュタインの幼少時代については誤解、不正確な記述が多いのだそうだ。シュタインは前述した通り、デンマーク支配下にあったシュレスビック・ホルンシュタインに派遣されていたデンマーク人陸軍中佐と地元の女性の私生児である。シュタインの母はこの軍人との間に三人の子供をもうける。シュタインが10歳までは父親からの仕送りがあったが、13歳の時に父親は亡くなるが、6歳の時から父の手配で養育施設で育つ。シュタインは優秀で15歳の時にデンマーク国王から特別な奨学金を得て学者への道を目指すこととなった。

 1836年、シュタインが20歳の時に母親がなくなり親の支援がなくなる。その後イエナ大学で哲学を学び、キール大学の学位論文が高く評価され、デンマーク国王から法学博士を授与される。シュタインが25歳の時だ。そして184110月から18433月までの1年4ヶ月をパリで過ごす。興味深いのはパリへ行く前にスイスのローザンヌにいきヴァイトリングの共産的共同体施設を訪ね、秘密国家警察に報告書を送っている。シュタインはスパイ活動、インテリジェンスの経験もあるのだ。そしてまたデンマーク王国が共産主義への警戒を高めていたこともうかがえる。 

 パリ滞在中に民衆の生活にも触れ27歳で『平等原理と社会主義』を執筆するのである。これがドイツにフランスの社会主義・共産主義を初めて系統的に紹介した書籍であり、ドイツ社会思想に大きな影響を与えた。マルクスにも影響を与えたのだ。

 シュタインが俸給のある職につけたのは30歳の時。キールの商人の娘と結婚する。彼の民主主義的左翼的傾向が災いしていたのだ。しかしそれもつかの間。1848−9年の革命の導火線となるようなシュレスヴィヒ・ホルンシュタインの分離解放を歴史的法学的視点を交えをシュタインは言論で主張する。しかしパリに滞在したシュタインはこの解放がカオスと右派が支持する軍事独裁しか招かないことを知る。同時にシュレスヴィヒ・ホルンシュタインの解放も諦めるざるを得ない結果となった。これがシュタインの思想的回転の機会となったのだ。すなわちフランス型の革命的思考様式から離れ、既存体制の存続を認識し、これを客観的に観察する思考様式に転換したのである。そしてその思考的転換は福祉国家建設のための憲政理論と行政科学、国民経済と財政科学を基盤とした国家科学—法学の科学的理論建造に繋がって行く。ここがマルクス主義と大きく違う点であり、明治維新を迎えた日本が幸運にも出会ったシュタインの国家科学であった、ということではないか?

 シュレスヴィヒ・ホルンシュタインの解放運動に加担したシュタインは1852年にキール大学の職を失うが1850年には州議会議員に当選し同国の自由主義と民主主義、それを支える行政司法体制を主張する。1855年にウィーン大学で職を得て1885年の70歳定年まで法哲学、財政学、行政学、国民経済学などを教えオーストリア・ハンガリー帝国の官僚、政治家、法曹、経済学者、企業家を養成した。シュタインは学閥を作らず、権威を嫌った。しかし1868年には彼の業績に対してオーストリア=ハンガリー帝国のヨゼフ一世皇帝は勲章を授与し、世襲騎士身分を叙任。自分の力でvonを獲得し、父の紋章を用いることとなった。

 

<考察>

 シュタインとマルクス。苦しい境遇に育った二人がこれほど違うのはなぜであろう?しかも二人は同じ社会科学を研究するのだ。マルクスは友人エンゲルスから常に借金をしブルジョアの生活を維持していた。シュタインは貧しい生活を続けていた。今一度新渡戸に語ったシュモラーのマルクス批判を思い出すと、マルクスはシュタインにとってもまともな学者には見えなかったであろう。その評価をマルクスは常に感じていたのではないか?昭和24年に翻訳本を出した猪木正道氏の「訳者序」では科学誌的社会主義をマルクスも議論しようとしていたのだがある時、科学者は預言者になってエスカトロギー(終末論)が現れる。一方シュタインはそのエスカトロギーを批判しプロレタリアート革命と共産主義を批判した。シュタインに触発されて社会主義を語り始めたマルクスはシュタインと全く反対の結論にたどり着く。プロレタリアートの解放運動を歴史の推進力として評価し、共産主義の暗黒面を看過したのだ。