やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

シュタイン、マルクス・エンゲルスと迎える御代がわり(4)

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階級と民族 — 歴史的叙述—(小泉信三著『共産主義批判の常識』)

 まず序文の小泉自身による解説から引用する。この論文というより歴史的叙述は昭和22年に「世界」に発表された。1848年を起点にヨーロッパの「民主主義」と「民族主義」の同流、逆流、交錯を叙述したもので、マルクスの民族主義はスラブ・ドイツ問題を理解しなければならないが日本では全くといって良いほど研究がない。続いて気賀の解説ではマルクス主義の階級的社会観と現実の民族問題が矛盾している事、また『共産主義批判の常識』の中でこの章だけが異質で他の章はマルクスの経済論と革命論への批判である事、そしてマルクスはドイツ民族の優秀性を信じていた事が挙げられている。皮肉なのはマルクスが蔑視していたスラブ民族がドイツ人を征服したが、逆にマルクス主義がスラブ人のロシアを支配した事も挙げている。

 マルクスの階級闘争史観は無国籍で非民族性を支持しているが、現実はドイツ国籍でユダヤ人であることからマルクスは離れられなかった。即ちヨーロッパの国家間、民族間の対立と連合の理論と現実の矛盾をマルクス自身が体現していた、という。

 「階級と民族」は以下の12の節から構成されている。

  • 階級と民族
  • 1848
  • 民主主義と民族主義の交錯
  • バクウニンの活動
  • スラブ民族
  • マルクスとスラブ民族
  • バクウニンの再出現
  • マルクスとデンマアク人
  • マルクスとイタリア統一
  • マルクスと民族主義

 東ヨーロッパの過去1000年の歴史はドイツ人とスラブ人が土地と支配を争った歴史であった、という。「スラブ」Slavという言葉は「奴隷」のSlaveの語源である。

 ミカエル・バクウニンノ(ロシア人、無政府主義者)の調査ではヨーロッパ、トルコの1200万人の人口のうちトルコ人は100万、スラブ人は400万人を占める。ハンガリーは1600万人の内マギャアル人が400万、スラブ人が800万人でここでも多数を占めている。

 マルクスはスラブ民族に対して軽蔑憎悪し、反文明的、反革命的民族とみなしていた。バクウニンもドイツ人を嫌い「ドイツ人をやっつけろ」がスラブ人の共通語である、と言っていたこともある。

 1848年のドイツ、イタリアでの革命と、ハンガリーのそれは多く違った。ハンガリーは国内に多くのスラブ人を抱えていたからだ。即ちハンガリーのマギャアル人はオーストリアからの独立を願っていたが、ハンガリー国内では多くのスラブ人がマギャアル人からの独立を願い、さらにオーストリアがマギャアルを抑圧することを支持した。ここに民族主義、民主主義の分流と逆行があると小泉は指摘する(123−124頁)他方同じハンガリーにいるスラブ人はトルコの圧政下にあり、ロシア帝国の干渉を望んでいる。さらに同じスラブ人でもロシア帝国と敵対するポオランド人もいる。これが1848年にバクウニンが認識したスラブ民族解放問題の所在である。すなわちスラブ人は各国に分散しているし、そのスラブ人同士も敵対しているケースもある。

 バクウニンはロシア人革命家であったが、ロシアはヨーロッパ大陸で革命が波及しない唯一の国であった。ドイツ国民議会に習って全スラブ民族大会が開催されるが、そこに参加したバクウニンは汎スラブ主義を訴えるようになる。(126頁)

 バクウニンの汎スラブ主義には民族自決権のイデオロギーが見える。「いわゆる歴史的、地理的、商業的及び戦略的必要に従い、専制君主の会議によって高圧的に設定せられた人為的制限」を排し「自然に従い、諸民族の自主的意思そのものがその民族的特性に基づいて示すところの、デモクラシイの精神において、正義によって引かれたる境界線」以外のいかなるものも持ってはならぬ、と。「専制君主の会議」の部分を「植民者の会議」に置き換えるとそのまま植民地独立付与宣言になりそうである。(130頁)

 1848年時点のこのバクウニンの主張は孤独の声であったという。マルクス・エンゲルスは支援するどころかスラブ人には歴史、地理的、政治的、工業的条件がなくスラブ人が独立を失うのは当たり前で「畸形無力の小民族達」とさえも形容していた。マルクスは1848年の革命の動きの中で、フランス、ドイツ、イタリア、ポオランド、マギャアル人が革命の旗を打ち立てたのに対しスラブ人のみが反革命の旗の下に集まった、と憤慨していた。(134−135頁)同時に汎スラブ主義を利用しようとする帝国ロシアの匂いをマルクス・エンゲルスは感じてもいた。(136頁) スラブ人はそのようなドイツに自由よりもロシアの鞭を与えよと叫んでいたのだ。(140頁)

 

 

 「マルクスとデンマアク人」の節はローレンツ・フォン・シュタインの生い立ちを知れば興味深く、小泉の記述が物足りなく感じるであろう。デンマークの支配下にあったシュレスビック・ホルンシュタインこそシュタインが生まれた育った地であり、この独立の動きをシュタインは支持したためキール大学の職を失う結果となった。シュタインはドイツ人の女性とシュレスビック・ホルンシュタインに赴いていたデンマーク軍人の私生児である。しかし優秀な彼はデンマーク国王から何度か奨学金を得て学者の道を切り開いたのである。マルクスに共産主義・社会主義を紹介したのもシュタインである。マルクスはデンマークを蔑視しドイツ人優越説を主張したがシュタインはどのように受け取ったであろう?

 「マルクスとイタリア」では、イタリアの独立を支持しながらも、フランスのナポレオン3世の支えるイタリアが独立することはドイツへの脅威につながるので、オーストリア・ハンガリー帝国によるイタリア支配の維持を支持したのだ。すなわちマルクスにとって重要なのは飽くまでドイツであってそれを犠牲にするような他国の独立は反対であった。しかし結果はマルクスの共産主義のイデオロギーがイタリアに独立をもたらした。

 最後の節で小泉は小民族の自存欲求が即ち民族自決権は大民族の革命、民主主義の前にどこまで尊重されるべきか、と疑問を呈している。1919年のパリ平和会議で米国のウィルソンが民族自決権を主張し、本人はそのつもりはなかったが多くの小国が誕生する結果となった。また1960年の植民地独立付与宣言で世界中に小国が誕生する結果となっている。現在500万人以下の小国数は約200カ国ある世界の国家の半分を占める。しかしその100カ国の人口は世界の2%にも満たないのである。