やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

シュタイン、マルクス・エンゲルスと迎える御代がわり(8)

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瀧井一博、「日本におけるシュタイン問題」へのアプローチ

 日本とシュタインの関係を知る瀧井氏の論文である。瀧井氏は現在日文研に所属されているようで1967年生まれというから50代前半。これからどんどん論文を出される事が期待される。現在シュタイン研究者は瀧井氏以外には柴田隆行しくらいでそれほど多くないような印象を受けている。

 この小論で、シュタインが最初に書簡をやりとりしたのが福澤諭吉である事がわかった。瀧井氏の『明治国家を作った人々』(2013、講談社)の方にはその詳細があるようだが同志社の図書館にはなく、今回は参照していない。シュタインが日本の法律、歴史を勉強し、福澤の『時事小言』に共鳴し書簡を出したのである。福澤はこれに感激した様子でシュタインの書簡を和訳してわざわざ「時事新報雑報」(明治15年6月2日)に掲載している。この書簡は福澤諭吉全集第21巻(昭和39年、岩波書店、368−369頁)に収録されている。

 それによるとシュタインは「日本毎週メール新聞」(Japan Weekly Mail)で福澤の『時事小言』を知った様子だ。そして福澤のその文章を欧州のどこかの言葉に訳せば政體学のみならず日本の名声を広めることにもなる、と提案している。そして17年の間に太平洋の一大開明国になろうとする日本を賞賛し、福澤の著書も尊敬すると共にする詳細を学びたく思う、というような内容である。

 西洋のしかもシュタインのような大学者からのこのような内容の書簡は福澤をどれだけ喜ばさせたであろうか?(34頁)

 福澤がシュタインの書簡を受け取った明治15年の8月にウィーンのシュタインを訪ねた伊藤は9月18日から10月31日まで約一月の憲法講義を受けるのである。伊藤調査団はその前にグナイストに面談し自国の歴史も知らないと軽くあしらわれ意気消沈していたのだ。(41頁、47−48頁)

 この論文で2点目に印象に残ったのは後藤新平が学んだ衛生行政学はシュタインの研究であったことだ。後藤が台湾、満州の植民地運営、日本の基幹インフラ整備、満州鉄道研究所の創設などに繋がる行政学はシュタインが原点であったのだ。(45−46頁)

 もう一点シュタインと日本を、明治天皇皇后を結ぶ記述も印象に残った。日本でのシュタイン人気は相当なものであったようで、侍従藤波言忠は天皇の名代としてシュタインの講義を受け、帰国後すぐに天皇皇后共に33回にわたるシュタインの講義を侍従藤波言忠が進講したとある。天皇は熱心に質問もされた、とのこと。(53−54頁)この講義内容はもしかしたら上記の文献リストにあげた「外人の觀たる我が國體: 墺國スタイン博士の國法學/ 偕行社編纂部編」にある内容と近いのかもしれない。同書には「元宮内省原版」とある。ただし昭和8年に復刻された同書には陸軍次官柳川平助(ウィキでは長崎出身、皇道派の重鎮で天皇を替える提案までしていた)の序が寄せられている。昭和8年、1933年は「軍閥が日本を滅ぼす」と言った新渡戸が亡くなった年である。

 シュタインが日本に関心を持ったのは、日独の歴史的背景も影響しているのではないだろうか?ヨーロッパに最初に日本を紹介したのは、タカアシガニの学名となったエンゲルベルト・ケンペル氏で17世紀末に日本の出島に滞在した学者である。その頃からドイツ、オランダあたりの日本研究、インド太平洋研究は始まっていたはずだ。神武の存在も知られていた。よってシュタインが日本研究をする素地は当時のウィーンやドイツに十分あったのではないか、と想像する。