瀬戸内海の村上水軍を訪ねた事をきっかけに『ハワイに渡った海賊達』(2007年、堀雅昭著、弦書房)を読んでいる、のだが芋づる式に出てきた資料に道が逸れている。
瀬戸内海の海賊の末裔はハワイに渡って、漁業の開祖となったのである!
小川 真和子 「ハワイにおける日本人の水産業開拓史--1900年から1920年代までを中心に」
(国際シンポジウム 環太平洋地域における日本人の国際移動 ; 太平洋世界の多様性・多元性と日本人の国際移動)、掲載誌 立命館言語文化研究 / 立命館大学国際言語文化研究所 [編] 21(4) (通号 100) 2010-03 p.39~52
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_21-4/RitsIILCS_21.4pp39-52OGAWA.pdf
ハワイの海と日本の海:ハワイでカツオの一本釣り漁を行った日本の漁師さんの物語
小川真和子
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_28-1/RitsIILCS_28.1pp.115-126OGAWA.pdf
小川氏は移民研究の視点に漁民や海洋開拓が抜けている事を指摘し、ハワイの水産業の歴史と日本の移民の関係を追い、ハワイでの日本人の社会的、経済的上昇を可能にした理由を探る事を目的にこの論文を執筆された。
下記は同論文から、印象に残った箇所。
・日本人移民、特に瀬戸内海の小島からの出身者がハワイに渡った時点では既に白人社会が確立され、陸の権益は白人が握っていた。p. 40−41
・当初は、農業の合間に行っていた漁業だが、1910年には日本人人口は10万になっており大きな市場となっていた。白人も、先に来ていた中国人もまたハワイ人もそれほど魚を食べていなかった。p. 45
・漁業を行っていたハワイ人はせいぜい2キロメーターの沖に出てカツオを取る程度で1900年
の水揚は190トンのみ。
・日本人が成功した理由の一つが会社経営で、流通や氷・燃料・食料・水などの調達費用を用意し、「誰よりも漁師を大事に」する経営方針があった。p. 44
・ツナ缶工場の成功は地元白人社会に禍根を残す事にも。パールハーバーの米軍施設と日本の水産業の確執も。排日漁業法案にもつながった。p. 47-50
やはり、瀬戸内海の海賊の末裔が開拓した漁業が日米関係の運命を変えたのである。
また、日本統治となった南洋よりも数十年先に開拓されたハワイの水産業は、1920年以降に主に沖縄から移民したミクロネシアの水産業に某かの影響を与えなかったであろうか?
グロチウスの海洋の自由を満喫したのは、日本の水産業だったのかもしれない。そしてそれを変えたのも。即ち瀬戸内海の海賊の末裔が太平洋の水産業を開拓した結果、海洋の権益が発生した?
しかし、この論考を見ればわかるように、その自由は、日本の小さな離島で間引きして人口調整を強いられていた人々が海外に出て、さらに現地で搾取され、差別された移民ー弱者を救う「管理された」自由、即ち組織経営・会社経営であったはず、なのだ。缶詰工場は漁師の夫や父親のいない、残された女性達が相互扶助する場でもあった、という。
現在、水産業の市場価格総額が年間数千億円、そのうちのたった数パーセントしか受け取っていない島嶼国は不平等な扱いを受けている、という理論展開(難癖ともいう)はどこかが間違っているような気がする。ではどうすれば良いのか?
太平洋・島サミットへの課題でもある。