やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて30年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

インドネシア独立宣言に「皇紀」が使用されている理由(1)

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東南アジア青年の船、という内閣府が主催する事業がある。60年代からアセアンにおける日本の経済進出で反日感情が激しくなる中、1974年にインドネシア共和国、マレーシア、フィリピン共和国、シンガポール共和国及びタイ王国の各国と日本国との共同声明に基づいて始められた。私は80年代後半からこの事業の事後活動に関わり、90年代は国際組織の事務局総長に選出され、アセアン諸国をよく訪ねた。インドネシアの奥深さを経験として知っていた。

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東南アジアの青年を乗せてアセアンを巡るにっぽん丸 ・タイが組織の主導権を取ろうと事務局総長の座を得たがうまく運営できず私にお鉢が回ってきたのだ。ノッパドン・パッタマ氏はその後、外相になった。

他方、太平洋島嶼国に関わる中で、インドネシア領、西パプアも気になる存在となった。パプア問題はインターネットのおかげで情報もたくさん出て来たが、それ以前は話すこと自体躊躇されるような件であった。この問題に関わるオーストラリア人ジャーナリストなどの暗殺が行われてきたのだ。私は西パプア独立指導者の知人もいる関係で、インドネシアの独立が新たな虐殺と搾取を伴った植民の動きになっていることも気になっていた。

そのインドネシアの独立宣言のことである。1945年8月17日。2605年の皇紀が使用されている。その意味が保守には親日、日本への感謝との理解があるようだが、単なる事務的処理との見解もある。

 

皇紀を選んだのは事務的処理ではないことを産経の榊原論説副委員長が書いている。

「スカルノらが、強制されていないのに、敗戦直後の日本の紀元を独立宣言書に用いた意味は重い。西暦は植民地支配への反発から避けたようで、辛亥革命後の中華民国暦のように建国を元年にすることもできたが、そうしなかったのである。」

スカルノやハッタは「皇紀」を選んだのである。しかしそれは日本に対する感謝とか好感ではなく、単に国際法上の理由ではないだろうか?というのは、東京裁判の判事であったオランダのレーリンクは、オランダ政府のインドネシア独立阻止に反対し、政府から疎まれたままであった、ということを彼をメンターとした同じく国際法学者の泰斗アントニオ・カッセーゼ博士が書いていたからだ。

占領における主権のあり方は多様な議論があるそうだが、私は知らない。占領軍が主権を前政府から取得できるのであれば、日本がオランダにあった主権を得た、という解釈が可能で、その日本の主権の下でインドネシアの独立が承認された、だから日本が完全に主権をオランダに返還する前に独立宣言を急いだのではないか?日本主権の下で、すなわち日本の承認を受けて行われたことを証明するためにも「皇紀」を用いたのではないだろうか?

 

下記の論文に興味深いことが書かれてあった。45年3月1日、日本は独立準備委員会設置を宣言。日本政府は独立の動きが現地人によって主導され、日本軍部が作成に関わってはいけないことを意識していたのではないだろうか?そうでなければ傀儡政権になってしまう。

「日本人は特別委員として参加し、参考意見を述べることだけが許されていたことや ジャワ軍政監であった山本茂一郎少将が日本人委員に「一般委員に自由に発言研究をなさ しめ、これを指導したり誘導しないこと」」 

芳賀美智雄 「インドネシアにおける日本軍政の功罪」2007-03、戦史研究年報. (10)

http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/3.pdf

 

そして、たまたま見つけた下記のサイトの引用文も興味深い。独立活動家グループは日本の承認を必要としていたのである。

スバルジョ氏は、本書で「われわれはすでに、一つの重要なことをやりとげていた。それは、日本軍の暗黙の承認を得ていたことだった」」

http://www16.plala.or.jp/bouekitousi/sub30.html

 

私はこの問題の専門家でもないし、この数日ちょっと気になってウェブをザザ、と見ただけであるが、インドネシア独立宣言文に「皇紀」が使用されている理由は、インドネシア独立の正当性を確保するためだったのではないだろうか?そして現場経験者から言えば、インドネシアの活動家達は、日本が一枚岩ではないことも十分理解していた、と思う。

これもそれも、戦争が始まってから、東大の植民政策学者、矢内原忠雄宅に来た軍幹部が植民とは何か全く理解していなかった事を、矢内原が嘆いているように、蠟山政道による侵略・搾取的な南進論が展開されたためだと、想像する。ここもまだ自信を持ってかけるほど勉強していない。