やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

オホーツク街道

オホーツク街道

 

 新しく立ち上げる研究会のサブスタンスの調整をしてほしい、と羽生会長から御指示があり、その気になって構えていたが、例によって財団からやらないでよい、と連絡があった。それで知床でハマナスが咲き始めました、とメールをもらったので行くこととした。

 

<道東へ>

 道東への旅はこれが三度目になる。最初は高野孝子さん主催の「とびっきりのエコツアー」に参加。世界遺産で有名な工藤父母道さんの案内だった。高野さんは野外教育の専門家で、ミクロネシアと日本の青少年交流事業も長年実施している。

 2度目は司馬遼太郎の『オホーツク街道』(1992年週刊朝日に連載)を読んで、友人との二人旅。思いきって1週間の休暇を取ったドライブ旅行だった。

  なぜ道東か。島と島を結ぶ、というテーマで沖縄通いが10年以上続いていたが、もう一方の日本の端、アイヌ文化が気になっていた。太い眉、彫りの深い顔、入れ墨文化など沖縄とアイヌの共通点を上げる記述もいくつか目にしていた。

 

<謎の民オホーツク人>

 『オホーツク街道』は、小学生の時全てを忘れるほど考古学に没頭し、挙げ句、父親に考古学の全てを取り上げられてしまった司馬遼太郎が、在野の考古学者の生涯を織り交ぜながら、謎の民オホーツク人に迫る。

 蝦夷征伐で、東北に住む縄文人を北に押しやった大和政権。樺太やその先まで広がるオホーツク文化。厳寒の海に生きる海洋民族の豊かな文化や、多民族との交流を遺跡や史実から展開する。そして関西出身の司馬遼太郎は自分にもアイヌやオホーツク人の血が流れている、と夢想する。

  サロマ湖に東京大学の北海文化研究施設がある。今回熊木俊朗准教授と国木田大助教授にお会いすることができた。熊木先生によれば司馬遼太郎の『オホーツク街道』の記述は、登場人物が変わっただけで今でも有効である、という。熊木先生は16年間北海道及びアムール地域の考古学研究を続けている。

 今も続く発掘調査では、大和に押しやられたアイヌとオホーツク人が戦った形跡はないと聞いてなんだかほっとした。また司馬遼太郎によれば、蝦夷征伐は「定住せよ、稲作をせよ」という、「血なまぐさい軍事行動というよりも、“弥生式農業の奨め”といったキャンペーンというものだった。」そうだ。これもなぜかほっとする記述であった。

 

<千年の時を越えた蝦夷征伐>

 森繁久彌の「知床旅情」を口ずさみながら羅臼の秘湯「熊の湯」に向かう。今年はこの歌が作られて50周年だそうだ。そして知床半島が世界遺産に制定されて5年。

 途中、ハマナスの甘い香りが立ち籠める小清水原生花園に立ち寄った。園内の大きな標識に「この小清水原生花園には天皇御一家が、次のように御出でになられました。」とある。

 

 昭和29年8月13日 天皇陛下

 昭和30年7月28日 清宮様

 昭和32年8月11日 義宮様

 昭和33年6月26日 皇太子殿下

 昭和41年8月11日 常陸宮殿下 妃殿下

 昭和52年8月29日 三笠宮殿下

 

 季節が夏だから、みなさん花を見られたのでしょう。ハマナスは雅子妃のお印でもある。昭和天皇は御歌初めで歌も詠まれている。

 
  みつうみのおもにうつりてくさをはむ
牛のすかたのうこくともなし

  「花見」「歌詠み」という行為が呪術的な意味を持つのであれば、非軍事的抑止力による大和政権の“蝦夷征伐”キャンペーンは千年の時を越え、いよいよ成就したということか。

 

(文責:早川理恵子)