やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

スプートニクショックがUSPNetを構築する

 太平洋島嶼の電気通信に関して風が吹けば桶屋が儲かる式の話がまだまだあった。大国の安全保障、経済の利益が明確になると島嶼国の福祉が向上する(可能性がある)、という話である。

第4話

スプートニクショックがUSPNet(南太平洋大学遠隔教育)を構築する」

 度々御紹介しているが、太平洋には12の島嶼国を結ぶ遠隔教育ネットワークUSPNetなるものがある。これとても、島の人々の高等教育のためにどこかの先進国が衛星を打ち上げたわけでも、トラポンを貸し出したわけでもない。

 発端はスプートニクショックに始まった米国の宇宙開発である。

 1957年、旧ソ連スプートニク打ち上げに成功し、宇宙開発の先を超されたアメリカは、翌年1958年にNASAを設立。国防総省との共同実験として膨大な予算を宇宙開発にそそぎ込むこととなった。

 1961年ケネディ大統領が「1960年代中に人を月に送り、安全に帰還させる」と演説で述べたことは有名であるが、同時に同じ演説の中で通信衛星を開発し、世界の情報通信の主導権を取るということも主張していた。INTELSAT設立への努力が進められたのである。

 他方、連邦議会の一部の議員から、NASAの今までの衛星の実験がCOMSATという一企業の利益に貢献するものではないか、との批判の声が上がっていた。これを憂慮したNASA国防総省の意向を含める形でATS-1の実験をスタートさせた。

 

 ケネディの宇宙開発は冷戦期における軍事目的が背景にあるものの、同時にINTELSAT設立にむけた通信サービスの世界的平和利用を進めたリーダーシップの現れでもあった。 

 このような時代背景の下、NASAの実験衛星を利用した福祉・教育ネットワークの実験プログラムが太平洋島嶼国で始められたのである。 

 1969年NASAは、実験衛星であるATS-1を使用した実験プログラムの申請を公募。

 遠隔教育や太平洋島嶼国に関心のあったアメリカ人John Bystrom教授がハワイ大学から申請したPEACESAT(Pan-Pacific Education and Communication Experiment Satellite)が1971年4月にスタート。

 この活動のよびかけに応えたのが1970年に設立されたばかりの南太平洋大学。冷戦まっただ中という時代背景もあり、カーネギー財団、USAID等の支援もあった。

 USPNetの誕生だ。

 冷戦終結過程の中で、USPNet(PEACESATも)は各国、特に米国が関心を失い存続の危機にあった。そこで、1988年フィジー初代首相故カミセセ・マラ氏から故笹川良一会長に支援の打診があったのである。

 次回、第5話は「ボーイング社のビジネスプランが失敗に終わると太平洋の離島にインターネットが繋がる話」です。

(文責:早川理恵子)