5章日本国際法学の推進者
織田萬 安達峰一郎と同期。昭和20年5月25日の東京空襲で死亡。昭和15年西園寺等に推薦され枢密顧問官の補欠になったが、近衞首相が織田の天皇機関説が祟って反対。
信夫淳平 ご子息の清三郎氏が後藤新平伝を書いているので、多少知っている。有賀長雄の弟子。本書著者の一又氏とは交流があったようで、信夫の弟子の死で、出版祝いなど祝賀をする人物がいなかったこと。3歳年少の立作太郎に師弟の礼を尽くしていたこと。1939年の上海旅行でプラベートの話をしたことなどが書かれている。四人の息子の中二人(満二郎、墺四郎)が自殺しており、そのことかもしれない・・
遠藤源六 日露戦争時、海軍大学校の国際法教授
松田道一
長岡春一 「国際法から見た日露戦争の研究」という仏文論文を書いている。常設国際司法裁判所の裁判官になるが、日本が連盟を脱退したため、帰国。
菊池駒次
松原一雄
板倉卓造
杉村陽太郎 リットン報告書への反論を書いている。同報告書の認識不足を指摘しつつ日本軍部の「自衛権の濫用」を指摘。1930年連盟事務次長兼政務部長であったというから新渡戸の後任か。500ページの「国際外交録」を執筆。日本の外交を批判。スポーツマンでもあり帰国講演はいつも満席。フランス大使、イタリア大使を経て1939年、戦争を見ずに57歳で亡くなる。
蜷川新 足利家の末裔で、南洋委任統治領の土着原住民の利益保護を委任統治委員会に訴願陳情するため熱心に動いていた。
高柳賢三
泉哲
大沢章
松波仁一郎
深井英五
尾佐竹猛
尾高朝雄
美濃部達吉
恒藤恭