Facebookで誰かが、エドワード・バーネイズの『プロパガンダ教本』とウォルター・リップマン『世論』は必読とあったので、図書館で借りた。
『世論』の訳者後書きから読み始めたら、ウォルター・リップマンがウィルソンの平和の14か条をドラフトしていたと書いてある。ウィルソンの「自決権」の背景を知りたかったので『世論』の本文は読まずに、その事が書いてありそうな『現代史の目撃者ーリップマンとアメリカの世紀』(ロナルド・スティール著、1982年、TBSブリタニカ)を探し当てて、こちらを借りた。上下書く400ページを超える大作だが読み出すと止まらない。
ベルサイユ会議の前後だけでいいやと思ったが他の箇所も気になって飛ばし飛ばしだが全部読んでしまった。
ウィルソンを大統領にし、米国を第一次世界大戦に引きずり込み、米国に講和交渉を主導させ、その案もドラフトし、今度はウィルソンが英仏に言いなりになった事が気に入らなとケインズを使ってウィルソン叩きを米国内で始め、米国の国際連盟加盟を阻止し、ウィルソンを蹴落とし、次の大統領を作ったまさにキングメーカーなのだ。しかもベルサイユの時リップマンは27歳だ。
それだけではない。ナチスのホロコーストを批判せず(リップマンはユダヤ人)、日本の満州事変ではスティムソンドクトリンの案を作り日米関係を悪化させ、真珠湾攻撃の後ハワイでは日系人への非難はなかったのに、カリフォルニアで反日運動と日系人の収容所送りをメディアで扇動したのもリップマンなのだ。
一体どんな家庭的背景はこの怪物を作ったのであろう?
ウォルター・リップマンの両親は肉屋と洋服屋の慎ましい家庭だったようだが、母方の祖父が不動産投資で財を得て、富豪に。一人息子のウォルターは両親とよくヨーロッパ旅行へ行った。しかし、母親から愛を受けた事はなく、父親からは男として威厳を感じた事がない。このような家庭の背景がリップマンを単なるジャーナリストだけでなく、キングメーカー、そして選んだ大統領を動かすようなパワーを与えたのかもしれない。
講和交渉の案を作成する秘密のグループ「調査会」の主要メンバーであったリップマンの動きを知る事はウィルソンの平和の14か条、特にその中の「自決権」がどのような背景で出てきたのか理解するのに役立つのではないか?
次のブログで、引用箇所をメモしたい。
このウィルソンセンターのリップマン再評価のビデオも後で見たい。
レーニンとウィルソンの関係を手軽に知るサイト見つけた。文献は山ほどあるようだがとりあえずの理解に役立ちそう。
Twenty-Five Lectures on Modern Balkan History
Lecture 16: The legacies of 1917 and 1919