やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

読書メモ『民族自決の意義と限界』丸山敬一著

2つ目の博論で扱いたい理論枠組みが「民族自決権」もしくは「自決権」である。

太平洋島嶼国の政治的立場を説明する時この理論、もしくはイデオロギーは必須と思いつつ一つ目の博論では何も議論できなかったからだ。

しかし、指導教官の坂元教授からは博士の3年で扱える内容テーマではないので止めておけ、とアドバイスいただいた。確かにそうなのだ。レーニンとその周辺を読むだけで多分数年はかかる。

と言いつつ、坂元教授に博論の構成を相談した際、太平洋島嶼国に限った自決権の議論は良いのではないか、とコメントをいただき、なんかもう、そこで博論を書き終わった気がしてしばらくぼーっとしてしまった。

昨年は日本の自決権研究第一人者松井芳郎先生の自決権に関するペーパーをいくつか読んだ。松井先生は自決権を否定すること自体を拒否する立場で、自決権がうまく行かなかったのはレーニンを正しく理解していないから、とも書いていらした。

私は、EH・カー、アントニオ・カッセーゼの自決権しか読んでいないので正直驚いた。カーは自決権の危機を「平和の条件」の中で議論し、カッセーゼはレーニンとウィルソンの自決権論はレトリック、と言っているのだ。(議論はもっと複雑だがここは簡単に書いておく)

松井先生の論文で引用されている他の日本人学者の論文もいくつか目を通したが松井先生に準じた議論のような印象を受けた。(どれも難しい議論で私が理解できていない、と思う)

そんな中、図書館で見つけたのが丸山敬一先生の自決権の議論だ。

民族自決の意義と限界』(2003, 有信堂高文社)

マルクス主義民族自決権』(1992,信山社

民族自決の意義と限界』をここ数日読んでいるが面白い。

今までかなりの民族自決権のペーパーを読んで来た何を言っているのかわからない論文が多い。(多分マルクス主義者の議論なのだと思う。)丸山先生はマルクス主義者を批判する立場のようだ。

この本では、マルクスエンゲルス、レーニン、スターリンルクセンブルク、レンナー、バウアーの誰も、マルクス主義者が主張する次の2点を主張していない事を明らかにして行く。

1.マルクスエンゲルス、レーニン、スターリンと一貫して民族自決の主張があった。

2.民族自決権さえ認めれば民族問題は解決する。

マルクスエンゲルス少数民族は歴史を持たない、廃れていく民族と冷酷だ。

レーニン、スターリン民族自決の精神があれば大民族主義になる、という理論だ。

誰も現在のように世界に小国が山程ある状態を想像も、期待もしていなかったのだ。

じゃあ、誰がこんな状態にしたのであろう?

ウィルソンか?

しかしウィルソンはベルサイユ会議の後、世界にそんなに民族がいるとは知らなかったと白状している。ルクセンブルク民族自決と民族自治の議論なども、彼のアドバイザーであったリップマンも含め、していない、イヤ知らないのではないか?

民族自決の意義と限界』の30頁に面白い事が書いてあった。

丸山氏はレーニン、スターリン民族自決権はメルティングポットを想定したというのだ。それは20世紀初頭の米国で議論されたコンセプトで、レーニンはそこからアイデアを得ていたのだ。即ちレーニンの民族自決権のコンセプトの起源は米国。

ウィルソンがベルサイユ会議で民族自決を唱えた時、レーニンは何を思ったであろう?そしてメルティングスポットにはならなかったその後の欧州の形をどう考えたであろう?

現在、世界にいくつの小国が存在するのであろう?

この小国の存在がBBNJなどの殆ど言いがかりのような議題を決定していくのだ。レーニンが知ったら、マルクスが知ったら何と言うであろう!

丸山先生は同書、9章で日本共産党がレーニンを理解していない事を議論している。

丸山先生の「民族自決の意義と限界」という同じタイトルだが短い論考が下記のサイトで読める。

https://www.chukyo-u.ac.jp/educate/law/academic/hougaku/data/26/1/maruyama.pdf