やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

吉野作造の愛弟子だった笹川良一

(2015年2月10日に旧ブログにアップした記事だが自動移行の際、落とされたようだ。後藤、吉野に接点のあった笹川良一さん。)

戦後、笹川良一氏を誹謗中傷した蝋山政道を、戦前、矢内原先生が侵略思想家、論理破壊と叩いているのを知って、敵の敵は味方の構図で、矢内原先生が南洋研究という観点からだけでなく、グッと身近に思えて来た今日この頃。
どこかで笹川良一氏と矢内原先生は接触していないだろうか?とウェッブサーフィンしていたら、なんと吉野作造氏と笹川良一氏の接点を見つけてしまった。
あんまり面白いのでコピペさせていただきます。


吉野作造選集 別巻 岩波書店 1997年3月24日、p41~42 からの引用だという。
原本を見ていないので、孫引きになります。

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(大正13年11月23日 後藤新平宛 〔封書、封筒欠く〕)

 謹呈 久しく御無沙汰致して申訳ございません不悪御ゆるしを願ひます
 さて急に差迫った事なので風邪病臥中の不自由を忍びつつ、此手紙を捧呈します 失礼の段は之亦御宥しを願ひます
 用件は大坂(ママ)の国粋会幹事・笹川良一といふ青年は多分明朝御訪ねするだらうと思ひます 昨夕私の所へ見えました 
 思ふ仔細ありて病床で遇ひました際閣下に紹介して呉れとの事でしたが紹介は友人間の事 先輩に対しては軽々しく出来ぬ併し子爵は元来客を喜ばれるから往訪面謁を願って見たら可いだらう 紹介はしないが折を見てあなたの御人柄を子爵に御伝して置くからと申して分れたのでした

 笹川といふ青年は本年春、大坂で始めて遇ったのです 私を訪ねた目的は怪しからぬ非国民だとて謂はば厳重に詰責に参ったので 場合に依ては暴力にも訴へ兼ねまじき見幕でございましたが私が事理を尽して平素の宿論を卒直に述べると遂に自らの誤りを詫び夫れ以来私を先生扱ひにして非常に親みを有つ様になりました

 私の観る所では教養が乏しいので是非得失の判断を誤り無用の事に昂憤するの嫌はありますが相当に説明してやると直に納得して善に移る珍らしい青年です 
国粋会にも斯んな青年が居ると思へば頼もしくさへ感じて居ります 私がもし引続き朝日新聞に関係して居りまして大坂に参る機会が頻繁にあったら同君を通して国粋会の有志ともっと接触して見たいとさへ思ったのでありました
 
 兎に角一寸人にそゝのかされて禁酒演説の妨害に往て其の演説に感服して禁酒禁煙を決心したといふ程の男ですから之を適当に後援指導したなら社会の為になると考へて居るのでございます 
尤も御邸を御訪ねする目的は金銭上の援助を求むるのではないかと思ひますが決して徒らに乱暴する様の人物ではございませんから其の辺御ふくみの上然るべく御取扱を願ひます
相当子分もあってヒョット誤解するとまた飛んでもない事をやる素質はまだあると思ひますので此辺御参考までに申上げたいのです

 作日遇った際には子爵に多額の御無心をするなどの間違って居る事を申しましたら自分のやってゐる雑誌の新年号に御話を承りたいのだと申してゐました 大体閣下には好感を有ってゐる様に見受けました

 私一己の希望としてもあんな類の青年には是非御面会を願ひたいと思ふのですが十分に知っても居ないものを一時の印象に依て御薦めする訳には参りませんので只右あらまし御参考までに申上ぐるのです                               草ゝ不尽
   11月23日                            吉野作造
   後藤子爵閣下

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笹川良一青年、25歳の時。
この年、矢内原先生は32歳。留学から戻り、新渡戸稲造の後を継いで東大の植民地政策を担当し始めた年である。

矢内原先生は、東大に入ってこの吉野作造と新渡戸稲造以外の授業は面白くないと思い、卒業後学問の道を選ばなかったのだそうである。
少なくとの吉野作造を通じて、矢内原先生と笹川良一氏のつながりは確認できた。