やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて30年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

満州事変 ー 笹川良一と松本重治、そして後藤と新渡戸

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緒方貞子さんの博士論文、満州事変を読みながらここには名前が出て来ない2人の人物を思い描いていた。笹川良一と松本重治だ。

2人は1899年生まれで同い年。満州事変のどこにどのように関わったのか。本を読みながら想像していた。

私が笹川の看板を背負って仕事する中で「笹川叩き」は日常の出来事だった。それでも忘れられない思い出がいくつかある。その一つが松本重治の笹川叩きだ。

松本重治の部下であり、ご子息洋氏の学友である団伊玖磨氏の妹、西尾珪子さんと私は数年に渡って、太平洋島嶼国の日本語教育の調査分析事業を行った。私が企画した事業だ。

 この調査事業の専門家を探していた時、

「私でもいいでしょうか?」

という問い合わせがあった。誰だろう?このおばさんは。。金ほしさに怪しい人物がたくさん寄ってくるのだ。財団の日本語事業担当者に聞くと

「は?西尾さんがあなたの事業に協力するわけないでしょう!」

と酷い事を言われた。日本の日本語教育の重鎮なのである。

「向こうから協力したいと申し出があったんだけど。」とは言わなかった。そんな事を言ったら嫉妬でどんな虐めに会うことやら。。

現地調査の他に報告書執筆のため、ほぼ毎週末西尾先生の麻布のご自宅に呼ばれた。色々と表では書けない團家の話や、御学友の上皇陛下、オノ・ヨーコの話等も聞かされた。

ある時

「松本重治から笹川の金だけは汚いからもらうな、と言われたのよ。」と。

そこを敢えて笹川の金に手を出したのは私の企画した事業が西尾先生だけでなく、同僚のカッケンブッシュ・知念・寛子先生にも重要な意味があったからだ。カッケンブッシュ先生は米国の平和部隊としてヤップ島に滞在されていた経験がある。この地域の言語学はカッケンブッシュ先生のライフワークであり、貴重な思い出なのだ。

私は、松本重治が笹川良一の金が汚いと言ったのはギャンブルの金だから、だと思っていたが、違うのだ。満州事変で笹川良一が何をしていたか松本は知っている。

緒方さんの満州事変の論文を読みながら、新渡戸が批判した上海事変の当りで政治謀略があり、それに笹川良一は加担し、松本はそれを見てきたのではないか?と思った。

 

松本重治が創設した国際文化会館の存在は、同じ太平洋、国際交流を行う私の仕事と時々重なり「笹川叩き」の洗礼を受ける存在だった。この松本を伊藤隆先生がかなり強く批判しており、その文章を探した事がある。図書館では見つけられなかった「追想 松本重治」は古書で入手し、伊藤先生の文章だけ読んでいた。手元にあるので今回他の人が書いた追想も読んでみた。

松本は新渡戸門下なのだ。矢内原のような正当の弟子ではない。新渡戸が連盟にいる時に欧州留学中の松本は少し指導を受け、1929年の太平洋問題調査研究会IPRの京都会議等に参加している。国際文化会館は松本が新渡戸の意志を継ぐ場所でもある事を始めて知った。松本が欧州で新渡戸と会って啓蒙されたのだろう。

同じ頃、東京では笹川良一が東京大震災の対応を巡って四面楚歌に会っていた後藤新平に会いに行っているのだ。笹川が出入りしていた吉野作造の紹介を得て。笹川青年は後藤から「君は大成するぞ」と強く腕を握られた事を60代になっても忘れていない。思えば笹川良一は後藤新平を目指して人生を歩んだのかもしれない。

お互いを軽蔑しあった(少なくとも松本は)笹川と松本。この二人が影響を受けたのが後藤と新渡戸。後藤と新渡戸は毛色は違うが切れない関係である。そして二人とも正当な学問を修めている。笹川・松本は学者ではないにも拘らず後藤と新渡戸を目指した、のではないか。そこに日本の悲劇があったのだと思う。

 

この文章はどうまとめてよいか数日迷い、とにかく書いてみようと思った。後で修正したり削除したりするかもしれません。