25歳の笹川良一青年が、吉野作造の紹介で67歳の後藤新平に会いに行っている。
果たして会えたのであろうか?会ったとしたら何を話したのであろうか?
佐藤誠三郎著『笹川良一研究 ー 異次元からの使者』の38−39頁に書いてあった。その箇所は『人類みな兄弟』(笹川良一、講談社、1985年)からの引用であったので、こちらの本も手にした。
221から222頁に詳しく書いてある。
まずは後藤新平に会うきっかけを作った吉野作造との出会いである。
吉野作造の手紙では、笹川良一青年が吉野に制裁を加えに、当初会いに来たように書かれているが、『人類みな兄弟』の方では違う。大阪朝日新聞が吉野を重役に迎え、筆が走り過ぎた事に日本国粋会大阪本部が怒ったところ、笹川青年が 「私は当時、縁者の者や父の碁の友がいた関係で国粋会の内部をよく知っていたので、むしろ熟慮して、じっくり話し合うべきだと意見を述べたところ、博士に合いに行く役にされてしまった。」(同書221頁)とある。
それから、後藤新平の事は吉野が笹川に、会ってみないかと薦めたという。
後藤にあった笹川は、後藤邸で縁側にざぶとんを敷いて差し向かいになって話した、と書いている。60年前の話なのに、よく覚えていると思う。きっと25歳の笹川青年にとって後藤との出会いは運命を変える大きなものであったのではないか、と想像する。
そこで後藤は、震災後に、大きな京浜国道を作って、四面楚歌になった話を笹川青年にする。
笹川は「(前略)今なら土地が安く買えるから、将来広くする土地でも買っておかれたらよかったのに。」と説教していた。
笹川良一氏は同書で
「後藤さんは、私の手首を痛いほど握りしめられて、「君は将来、成功するよ。今日、ぼくにいった意見を忘れるなよ」と励ましてくれたことが、いまだに忘れられない。」(222頁)
と記している。
25歳の時の、しかも60年前の後藤新平との出会いは「いまだに忘れられない。」出会いだったのである。
後藤は、笹川が会った5年後に他界しているので、笹川青年が後藤に会ったのはこの時だけだったかもしれない。しかし、後藤の仕事は世間のあらゆるところにあったはずなので、笹川青年はその背中を見ながら、政治家を、社会改革を行ってきたのではなかろうか?
後藤新平を読み進めると、なんだか笹川良一に重なってくるのだ。
しかし両者の違いは後藤は国を、台湾を作ったが、笹川は国を滅ぼし、今でもその動きは続いていることだ。