ミクロネシアの海洋開発の支援を打診したのはマーシャル諸島のリトクワ・トメイン(Litokwa Tomeing)大統領で、彼の来日の際の手配をしたのは私であった。その時は「海洋開発」という大きな支援要請であったが、これが国交省からの天下りできていた羽生次郎元審議官の提案でミクロネシア海上保安事業という、安全保障を対象とする事業になった。
ちなみに羽生氏も笹川陽平氏も海洋問題、太平洋、ミクロネシアの社会経済、国際政治、安全保障は何も知らず、教えて欲しいとわざわざ私に依頼した方達である。実はこのブログはそのことをきっかけに始まったのだ。羽生氏からは嫌な思いもさせられたが、私を大きく信頼し、事業を任せてくれたことは、正直に感謝している。しかしミクロネシアの海洋問題という基本的課題設定をしたのが私であることは羽生氏に知らせなかった。東大出の官僚を駒として使いたかったからだ。自分が主導していると思わせた方がよい。
私には未知の分野でもあった海上保安という安全保障事業を立ち上げることに不安と躊躇いもあった。他方、通信というこれも安全保障のど真ん中の事業に20年近く関与してきたので、自分が動けば事業は動くという自信もあった。私が動いたら太平洋の安全保障体制が大きく動く、という覚悟だ。現在世界的認識となった中共の西太平洋進出に対抗する基盤を2008年に作ったのである。今思い返すと動いてよかったと思う。
2008年5月、私はミクロネシア連邦の大統領、副大統領、大統領補佐官、そして運輸通信大臣が集まる会議に呼ばれていた。2000年の沖縄G8サミットで発表された通称IT憲章をきっかけにミクロネシアの情報通信制度改革を粘り強く支援してきた結果が出たのだ。ミクロネシア連邦政府は長年独占であった通信運営の規制緩和を進める決定をした。規制緩和によってミクロネシア連邦の通信産業に関心を持つ外国企業も現れ、またクアジェリンからグアムを結ぶ海底通信ケーブルの存在も大きく影響した。
そこでの議論の詳細はここに書かないが、一通りの議論が終了した後、私の発言を求められた。
「大統領、この度の結果を喜ばしく思います。長年側面支援をさせていただいたことは光栄でした。ところで、海洋安全保障の支援の可能性を検討しているのですがどうでしょうか?」
「海洋安全保障? リエコ、我々の課題は山のようにある。進めてくれ。しかし我々は米国との協定に縛られ、何もかも米国の許可がないと進めないのだよ。」
米国との自由連合協定のことである。基本的には安全保障に関する協定だ。鍵は米国であることは通信事業でも同じである。
「大統領ありがとうございます。それでは大統領の内々のご意向をいただいたということで、これからパラオとマーシャル諸島にもコンタクトしてみます。」
なぜこんなに話がトントンと進んだのか?それは私が通信事業の分野を長年支援し、その結果を大統領が歓迎した機会を得たからである。NTT改革のような制度改革の話である。上手く行かない可能性も大きかったのだ。大統領には、私がミクロネシアのニーズと政治を理解し、実績があることがわかっており、信頼してくれたのだ。これも有難いことである。
この後、私は引き続きパラオ政府との交渉を進めた。そこで私は太平洋司令軍キーティング司令官に出会ったのだ。
2008年5月ミクロネシア連邦首都のパリキールにある大統領府。
左からAlik副大統領、Itimai運輸通信大臣、筆者、Mori大統領、Mida大統領補佐官