東チモールとの出逢い
(写真は1999年のAbel Guterres大使)
たった2日のキャンベラ出張ではさまざまな出逢いと再会があった。
その中でも最後を締めくくり、強烈な印象を残したのは東チモールとの出逢いだ。
ベルギン博士のご高配で、同博士の東チモール海洋安全保障調査の下準備も兼ねたディナーの席に同席。東チモールのAbel Guterres大使とお話をする機会を得た。最近、同国に中国政府が沿岸警備艇を供与している。
実は私が会議で質問をしたので、オタゴ大学の博士課程の学生であることを知った大使からテーブルに着く前に「来年はオタゴ大学に行くからよろしく」と話しかけてきてくれたのだ。東チモールの在豪大使館はニュージーランドも太平洋島嶼国も管轄する。
東チモールは日本軍とインドネシアによって何万、何十万という人々が犠牲になった話はどこかで読んだか、聞いたかしていたが、家族全員をインドネシア軍に殺されたという大使から直接お話を伺うことになった。こういう場面では何も言葉が出て来ない。
ベルギン博士から「インドネシアに対して恨み復讐の気持ちはないのか?」と聞かれた大使は「個人がやったことではない、regimeの罪である。恨んではいない。」と答えた。
大使は、7月にフィジーの軍事政権が開催したエンゲージメント会議と8月にバヌアツで開催されたフォーラム総会にも参加しており、メディアには出ない興味深いお話も聞けた。
バヌアツに行った15名のインドネシア代表団は西パプアグループとも面談していた。
軍事政権下のフィジーは観光が潤っていて、会議参加者(首脳閣僚)の部屋が間に合わない状況だったと言う。即ち国は安定、繁栄しているということだ。会議には豪、NZは招待されたのに返事も出さなかったが、米もインドネシアも参加していたそうだ。日本はどうだったか聞き忘れた。
ベルギン博士は余程安全保障に女が出て来たことが新鮮だったのであろう。「こちらのジャパニーズ・レイディが。。。」と紹介するのだ。何処も同じだ。
もう少し仲良くなったら、「OZ ジェントルマン」とでも紹介してやろう、と企んでいる。
すると東チモール大使が「私たちを独立に導いたのは日本人女性です。シスターモニカです。」と切り返してきた。
1989年、シスターモニカがアジアをかけ廻り1257人の署名を集め、国連非植民地化委員会の公聴会に臨み、ペレス・デクエヤル事務総長に提出したのだそうだ。
私も勿論知らなかったが、ベルギン博士が丸い目をいよいよ大きく見開いて、大使に聞き返した。
「ジャパニーズ・ナン...本当か?」
大使は笑いながら答えた。
「そう、こちらもジャパニーズ・レイディ。」
<参考資料>
(文責:早川理恵子)