やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

登戸の善の丸

登戸の善の丸

 フィジーだ、パラオだ、と仕事といいながら行く場所が場所だけに、親も友人も、挙げ句に財団職員まで「楽園の島」で何が仕事だ、と猜疑の目で見る。

 か弱き乙女が太平洋で、一癖も二癖もある島人相手に孤軍奮闘しているのを暖かく、時に厳しく見守ってくれるのは笹川会長と羽生会長しかいないようだ。

 親に「最近は海洋安全保障をやってます。」と報告した。少しは誤解が解けるかもしれないと期待。面白い話が聞けた。

 昔、千葉は散村で佐倉藩の御蔵があった寒川、一般の旅人が船で乗り降りしていた登戸港が栄えていたんだそうである。

 登戸に「善の丸」という回船問屋があった。そこの娘が千葉の本能寺のお寺の次男に嫁いだが、姑との折り合いが悪かったかなんかで、夫を連れ戻ってきた。それから萩原という資産家に子供がいなかったので夫婦養子に入って後を継いだ。同時に夫は「遠州屋」という洋服店で修業し、萩原商店を開店。大正の大地震でお店をなくした東京の洋服店の方々を支援したような話しも聞いている。本能寺の次男は大親分になったんだそうである。

 これが、私のひいじいちゃん、ひいばあちゃんである。

 明治時代、人々の人生も激動を迎えたのであろう。今よりも波瀾万丈だったようだ。

 「善の丸」はいつ頃まで活躍していたのだろう。

<参考資料>

房総史譚

千葉町界隈(1)「港町」時代の登戸