前回書いた伊根の話に昭和恐慌以降「330戸の伊根から120名の青年の戦死者が出た」という話を読んで、筒井清忠先生の下記講演内容が急に思い起こされた。
自分へのメモとして書いておきたい。
筒井先生の近現代史の視点で当方が好きなのが、戦争の責任を特定の政治指導者や軍隊に押し付ける傾向が強い中、筒井先生は顔の見えない「大衆」「民衆」そしてそれを煽るメディアの責任を問うている部分である。
2014 年 5 月 22 日(木)17:00~17:58
講演 二・二六事件とその時代 ―危機的状況下の日本―
会議録より
「一つには、言うまでもないのですが、1929 年(昭和4年)の世界恐慌が日本を襲ってきて、不景気、デフレ、失業者が増加して、巨大な不況時代が起きたことです。これは末松太平という人の『私の昭和史』という、現在、中公文庫に上下2巻で入っている本に書いてありますが、実の父親が満州の前線にいる息子に、死んだら国からお金がおりるから、その金が欲しいから必ず死んで帰れ、と手紙を送ってくる。しばらくして小さい戦闘があると、その兵隊のみが死んでいる。またあちこちで戦死者の遺骨が帰ると、遺族たちが金欲しさにそれを営門の前で奪い合う。
こういうことで、全国の連隊では昭和維新の運動にシンパシーを感じる青年将校が増加してくるわけです。結局、こういう実家が悲惨な状況の部下に死んでくれという訓練や突撃の命令なんか出すことはできない、というのは青年将校のかなりの層の共通の悲願になってくるわけです。」
昭和恐慌は伊根も襲ったのではないだろうか?
120人の戦死者の遺骨は何戸の伊根の人々を救ったのであろうか?
筒井先生が引用した、上記の手紙は決して数通だったのではなかったのではないだろうか?
戦場の若い兵士は、自分が死ねば姉や妹が売られないで済む、そんな事を思ったのではないだろうか?
息子に必ず死んで帰って来い、と手紙を書いた父親はどんな気持ちで書いたのであろうか?
死を目の前にした貧しさ、というのは経験してみなければわからないのではないだろうか?
伊根の歴史に少し触れただけである。