やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

重光葵のアイランドホッピング

「以上は日米豪の関係より太平洋問題益々重視せらし、日本の南洋占領以来米国並び豪州側が日本統治区域に接近する地において特に警戒を厳にし来れる傾あり、(「グアム」日本人の取締一層厳となれるか如し)日本の南洋に関する軍事上の利用に関し益々注目せられ居る状態より見て特に慎重の考慮を要すべきやに或す」

 https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B15100706900

 

大正10年(1921年)1月15日、横須賀を出港した船は重光葵を乗せて、ミクロネシアの島々を訪問。3月16日、2ヶ月のアイランドホッピングを終え、台湾、高雄に戻っている。

1919年、ベルサイユ条約で日本の委任統治が決まったミクロネシア地域の統治方法を検討する事がこの34歳の若き外交官、重光のアイランドホッピングの目的であった。

 

34歳。重光葵は日本の国運をかけた、南洋統治政策を現地視察を経て策定したのである。

当時は、外務省のベスト&ブライテストがミクロネシアを、太平洋島嶼国の問題を担当していたのである。1911年外務省入省の重光は東大で新渡戸稲造の植民論を教わっていたに違いない。

 

上記の引用した文章は極秘文書「南洋視察に関する報告」からだ。

アジア歴史資料センターのウェブで誰でもダウンロードできる。

 

今回のパラオ出張に持っていた資料の中に、この重光の文書がある。

「極秘」にする事がよくわかる内容であった。

それで、現地の日本大使館の人に聞いて見ようかと持ち歩いていたのだが、この報告書の存在すら知らなかった。重光葵の南洋報告。肝腎の日本政府外務省が知らない。予想していたとは言え、さすがにショックであった。馬鹿にしているのではなく、外務省の中で太平洋島嶼国問題がそれほど軽く扱われている、という事の現れであろう。

 

 

当時、ミクロネシア統治に関しては次の4つの意見があったという。

イ)外務省の領事館を置いて簡単な統治とする、

ロ)一殖民地機関をおいて統治する、

ハ)台湾に統治を委託する 

ニ)之らの中間の意見もあり。

 

重光のこの報告書はどのような影響を与えたのか?

日本の南洋統治は、重光外交政策そのものだったのではないか?

 

 

実は、今回のパラオ会議で豪州王立海軍(男性)からイジメに合った。女子供を苛めるが豪州王立海軍である。黙っているとつけあがるので、反撃中だ。米国沿岸警備隊も、日本財団の支援を素直に喜んでいるわけではない。

自分たちが本来守らなければならないミクロネシアの海洋で何も出来ていない事への焦りがあると思う。

34歳の外交官重光が訪ねた時と状況は全く違うし、こちらの支援内容は法執行。とはいえ、米豪に関する重光の下記の注意事項は、心に留めておきたい。

「益々注目せられ居る状態より見て特に慎重の考慮を要すべきやに或す」