やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

「戦後70年の日米関係と沖縄、そして北東アジア」渡邉昭夫(2)

渡辺先生からメールをいただいた時、当方が執筆した月刊正論の記事へのコメントをいただいた。

「アメリカは本当にミクロネシアを日本に返したがっているのだろうか?」

 

渡辺先生が「海外事情」2016年10月号特集に寄稿された論文の後半は米軍基地の事が書いてある。

渡辺先生があのコメントを当方に投げかけた理由がわかったような気がした。

沖縄から米軍が去る事はあるのか?という事が議論されている。

 

戦前、日本がなぜミクロネシアに進出したのか?

日本のミクロネシア統治の背景として、WWI参戦に積極的だった秋山真之等は軍事的利益を考えていた。これは平間洋一先生の本に詳しい。

日本統治を控えた日本外務省からミクロネシア諸島に派遣された重光葵の極秘報告書には、島は小さ過ぎて軍事と政治的意味しかない。経済的利益は望めない、と書いていた。(手元に資料がなくうろ覚えです)

しかし、まさに沖縄のウチナンチュがミクロネシアの島の人口より多く移民し、ミクロネシアの遠洋漁業を開拓したのである。島は小さくとも広い海洋を我ものとし、小さなミクロネシアの島々は水産業で繁栄したのである。

これが太平洋の遠洋漁業の起源でもある。

即ち日本の植民は軍事が当初の目的であったが、経済的発展をミクロネシアの、その広大な海洋に見いだしたのだ。さらに、後藤新平、新渡戸稲造らが開拓した日本の植民政策は、現地人の教育、医療、文化を尊重する事が基本であった。軍政下で島の先住民支援を開始した。(東郷吉太郎とか。)

 

これに比べ米国のミクロネシアへの関心はドイツと共に燃料の補給、通信の中継地である。1921年のワシントン軍縮会議の主要議題の一つが、通信経由地であるヤップ島の取り扱いを巡る協定の作成であった。

米国はミクロネシアの経済開発を日本時代以前も、第二次世界大戦以降もほとんど行っていない。

私が太平洋島嶼国に関与し始めたのは1988年は冷戦終結を迎えた頃。まさに米軍が去ったミクロネシアの悲惨な状況を直面していた時だ。

 

米国には後藤新平が、新渡戸稲造がいなかったのだ。即ち植民政策がなかったし、今も開発政策はないであろう。

私に、「米国は特に国会議員はパラオを日本に返したいんです。」と言った米国高官は国務省の人である、国防省は違う見解であろう。しかし少なくとも島社会の経済社会開発はお手上げのはずである。

永遠に自立する様子はなく、米国の負担は増えるばかり。

即ち米国は太平洋島嶼国に経済的利益を見いだせないのである。便宜置籍船やタックスヘブンのような怪しい活動以外。

 

渡辺先生が論文に書かれているのは北東アジアのことで当方は馴染みがない地域である。

ミクロネシアについて言えば日本が安全保障や経済分野で積極的に支援し成功すれば、米国も本気になる、という事だ。パラオへの海洋安全保障支援事業を一番喜んだのは米国である。キーティング司令官はパラオ高官との協議で、この広い太平洋を守るには日本の力が必要だ、と本音を漏らしていたのだ。

 

そうだ。ミクロネシアの海洋安全保障事業を開始した時、私は渡辺先生に「樋口レポートのレベンジが私がやります。」と宣言したのだ。

樋口レポートは日米同盟をベースに、日本の多角的安全保障活動を唱えている。

 

防衛問題懇談会「日本の安全保障と防衛力のあり方‐21世紀へ向けての展望‐」(樋口レポート)より

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPSC/19940812.O1J.html

第四に、上に述べたような局地的武力衝突の誘因となるのは、経済的貧困や社会的不満であり、それと関連した国家の統治能力の喪失である。この点に着目すれば、安全保障問題の解決には、単に軍事的手段による対応だけではなく、経済・技術援助を含めた多元的な手段を駆使して、統合的に取り組むことがますます必要になってくると思われる。

 

話がまとまらなくなってしまいました。

もう一回書きたい。領土、国境問題である。