やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

ニミッツ司令官が示した日米の和解

f:id:yashinominews:20210819112651p:plain


安倍総理のハワイ訪問。

真珠湾の慰霊は「和解」reconciliation という言葉に象徴されるようだ。

 

一昨日前、私は、ペリリュー戦を率いた米軍チェスター・ニミッツ司令官の"The Great Sea War"の和訳本『ニミッツの太平洋海戦史』(恒文社、昭和41年)を手にした。以前、なぜペリリューの戦いが行われたのかを軽く調べた事があり、英文にはない日本語版への序文が読みたかったからだ。

英文が出版されたのが1960年、日本語版にニミッツの序文が寄せられた日付が62年。即ちニミッツがこの本を書いたのは50年代後半であろう。序文を読むともうその時から日米の、少なくとの軍人による和解は開始されていたのである。

 

以下ニミッツの序文より

「(前略)日本は英国と同様に、その生存を輸入と輸出の能力に依存しているが、この能力は、物資輸送のために、また自国ならびに国際水準における正当な漁業のために、海上を妨害されないで自由に使用することができるかできないかにかかっている。」

 

マッカーサーがあの戦争は日本の自己防衛であった述べている、ということが正しいのであれば、その認識はニミッツにもあった。少なくとも米軍にはあった、ということであろう。

 

ニミッツは続ける。

「日本は、強力な海上力を持つことによって、あるいは、大きな海上力を有する強力な同盟国と手を堅く握ることによってのみ、その生存と繁栄を続けることができる。この冷厳な事実を、1941年12月8日に真珠湾で始まり、1945年9月2日に東京湾で終わった大海戦の結末から、日本人は力強い感銘をえたのである。」

そして日米は再び友人となり経済、軍事の両面で協力を強化している、と続く。

ニミッツは東郷平八郎を心底尊敬していたのである。東郷神社の再建を、戦後キャバレーとなった戦艦三笠を救ったのはニミッツ司令官である。

 

そしてこの本の訳者あとがきで初めて知ったのだが、ニミッツ司令官はペリリューの戦いを指揮しただけでなく、真珠湾攻撃で責任を取らされた米国太平洋艦隊司令長官キンメル提督の後任者となったのである。

じゃあ、もしやPACOMは?と思ってwikiを見ると、1942年4月にPACOMの起源を辿ることができる。即ちPACOMは日本の真珠湾攻撃が作ったのである。それを率いたのが南西太平洋を担当したマッカーサーと太平洋を担当したニミッツだった。(素人見当です。間違っているかもしれません)

 

 

今回の安倍総理の真珠湾訪問に関して、戦後初の首相の訪問という報道が揺れた。

50年代に3人の首相が既に訪れていたのである。日米の和解は50年代から始まっていたのだ。

1951年 吉田茂元首相

1956年 鳩山一郎元首相

1957年 岸信介元首相

 

なぜ、この事実を外務省は認識していなかったのか?

私は経験として外務省のハワイ軽視を知っている。

私が太平洋に関与し始めたのは冷戦終結後。

ある意味、米国の関心が薄れた太平洋、即ちハワイ、グアム、ミクロネシア地域、そして米国が得意とするメディアやICTなど情報関連の事業の穴埋めをするような形で開始したのである。私はほぼ毎年のようにハワイに出張していた。ハワイ大学、ビショップ博物館などと事業を展開した。

ハワイは東西センター、PACOMがあり、米国の太平洋政策の基点である。しかし日本政府、外務省はほとんど関心がないよう見えた。

 

一度その事を明確に確認した経験がある。

渡辺昭夫先生の依頼で国際問題研究所内にあるPECC太平洋委員会のテコ入れをお手伝いしている時に、石川薫という外務省官僚から「ハワイなど重要ではない。」と明言されたのだ。私はハワイ大学とPECCを結びつける可能性を探っていたのだ。

ハワイが重要でないならば、太平洋島嶼国はなおさら重要ではないのであろう。少なくとも外務省にとっては。

20年前程の話である。

 

 

真珠湾における日米の和解は既に50年代、少なくとも3人の日本の首相と2人の米軍司令官には確認されていた。

しかし、それ以降は薄れ、多分80年代、90年代には忘れられていたのかもしれない。

だから今回の安倍総理の和解を象徴する訪問は重要だったのだと、絶版になっている『ニミッツの太平洋海戦史』を読みながら考えた。