やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

電気通信大学名誉教授小菅敏夫先生

右から小菅敏夫教授、田中正智教授、当方 90年代半ば。グアム大学のPEACESATにて

 

電気通信大学名誉教授小菅敏夫先生に20年ぶり位にお会いする機会を得た。

太平洋島嶼国の情報通信(ICT)政策で博士論文が通過したことをご報告させていただいた。

 

実は、小菅教授は、私より早く笹川太平洋島嶼国基金のICT事業に関わっている。

1988年の太平洋島嶼会議を受けて設置された島嶼国基金は、1989年1月の笹川カミセセマラ会談を受け、衛星通信事業を最初の案件として検討していた。

 

 

 

私が財団に入った1991年4月には前任者は既に退職しており、残された資料で過去の経緯を追っていたのだが、そこに小菅教授の名前がありお会いした。

小菅教授は同時にPEACESAT政策会議の申請案件を当方に示された。

これが太平洋島嶼国基金が、そして私がUSPNetとPEACESATに深く関わり、2つ目の修論と博論まで書くきっかけであった。

 

 

当時、控えめに言っても島嶼国基金は瀕死状態だった。前任者は、努力の形跡は読めても、かなりひっちゃかめっちゃかにされたようだ。

まずは基金ガイドラインを作成した。そしてそのガイドラインに沿って遠隔教育研究会を立ち上げ、小菅先生に委員長になっていただいた。

この研究会の中でUSPNet申請書を作成して行ったのである。勿論USPが一人で作成できる訳がない。特に技術的面である。さらに、太平洋から追い払ったはずの日本がUSPの一番重要な遠隔教育の部分に出て来ることへの英米豪NZからの反発。そして独占体制の電気通信事業者からの反発を緩和して行く必要があったのだ。

 

そうして出来た申請書であったが、94年か95年頃、当時基金運営委員長だった笹川陽平から「ODA案件だな」と却下の判断。ODA案件に黙っていなるわけがないので、私が太平洋諸島フォーラム、南太平洋大学へのロビーイングを開始し、結果1997年の第一回太平洋島サミットの目玉ODA案件となったのである。

 

小菅教授には当時は言えなかった財団内での苦労などもお話した。

最後の方は、もう諦めろ、止めろ、と皆から批判されODAになる可能性も否定されていた。

それがODAになってしまったのだから批判していた人たちはおもしろくないわけだ。

ここら辺の経緯は日本政府の動きとして博士論文に書いた。

 

そう、英米豪NZそして独占体制の電気通信事業者からの反発だけでなく、財団内からの批判もあり、四面楚歌の当方は小菅教授を上手く利用させていただいたことも事実だ。だって私がなんか言っても「小娘が生意気な!」と反発を受けるだけだが、そこは小菅教授に前面に立っていただいた事で、少なくとも表面上は皆さん納得するのだ。

小菅教授との久しぶりの面談、色々思い出してケーキセットはおごらせていただいた。