やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

30億円の基金を任されて(4)

笹川会長も懸念する財団の不正・腐敗の影を感じながらも、30億円の基金をゼロ、いやマイナスから立ち上げる、やり甲斐のある仕事を得たのは運命だった。

そして質の高い公正な事業を、基金運営をすれば、影のように忍び寄る財団の不正・腐敗から距離を置くことができる、と思ったのだ。26歳の私は!

 

基金の目的を自らドラフトし、ガイドラインを策定する中で、事業も形成して行った。

その一つが衛星通信の事業だ。

衛星通信の件は、1997年には2つ目の修士論文(青学、渡辺昭夫先生)として、さらにその10年後には1つ目の博論(オタゴ大学)としてまとめるほど詳しくなってしまった。

 

きっかけは1989年1月笹川陽平氏がフィジーを訪ねカミセセ・マラ閣下から、太平洋島嶼国のために衛星を打ち上げて欲しいと要請されたことにある。この要請の意図はすぐに理解できた。それまで利用してた米国の実験衛星PEACESATが使用できなくなったからだったのだ。

前任者はなぜか理解できていない様子だった。残された書類から判断すると。

 

そしてこのPEACESATが再開することになって基金の助成事業として1992年に支援した仙台会議。郵政省が国際宇宙年であったことから便乗し、しかも笹川尭議員が偶然郵政政務次官だった事も幸いし、日米の衛星開発国際協力事業として発展したのだ。

 

日本の衛星開発を後押しした笹川平和財団

yashinominews.hatenablog.com

1992年PEACESAT仙台会議での笹川堯政務次官挨拶と笹川良一名誉会長のメッセージ

yashinominews.hatenablog.com

 

このPEACESAT会議開催と同時に前任者が残して行った教育指導者会議がグアムで開催された。

ここで一気に笹川太平洋島嶼国基金が「教育」「通信」という方向に重点を置くこととなった。ガイドラインももちろんその方向で策定した。

 

ここで太平洋島嶼国の通信と教育分野の人的ネットワークが一気に広がった。

しかし、残念な事に財団では誰も太平洋島嶼国と通信に関して理解を示す人はいなかった。それだけでなく「お前は”衛星”というと目が潤むなあ」と茶化すレベルだったのだ。

 

この衛星通信事業は太平洋をめぐる、日米そして英国、豪州、ニュージーランドのハイポリティクスであり(安全保障や地政学上)、同時に90年代の衛星ビジネスの民営化、通信の自由化と連動していたのだ。まさにその時流に乗った、いや時流を作った事業だったのだ。

財団の不正・腐敗が入り込む隙は一切なかった。