やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

日本がなぜUSPNetを支援するか?ー <その1 ポストコロニアル通信体制を変革したUSPNet申請案>

日本がなぜUSPNetを支援するか?ー 

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右から電気通信大学の小菅教授(当時)、田中教授、筆者

<その1 ポストコロニアル通信体制を変革したUSPNet申請案>

南太平洋大学の遠隔教育ネットワーク ー 通称USPNet.

日本のODAでそのキャパシティがどんどん拡張されていく様子を見るのは感慨深い。

南太平洋大学は旧英国植民地の島々が集まってできた大学だ。オーストラリアとニュージーランドの領分である。なぜそこに日本が支援する事になったのか?その過程、意味をを知る数少ない歴史の証言者としてここに書いておきたい。

1988年8月26・27日、笹川平和財団が太平洋諸島の首脳を集め『太平洋島嶼国会議』を開催。そこに招聘されていたフィジーの故カミセセ•マラ首相から故笹川良一名誉会長に当時運行が停止していたPEACESATに替わる衛星を太平洋島嶼国のために打ち上げてほしい、という要請があった。

その時私はまだ財団にはいない。残された資料によれば、衛星を打ち上げる可能性も検討したようだがさすがに金額が大きすぎ、マラ首相に打診したところ、それではUSPNetだけでもなんとかならないか、という回答であった。

この段階で1991年財団に入った私が担当する事になった。当初日本財団が支援する方向で調整してきた。具体的にはUSPNetの申請案作成を関係者と調整してきたのである。日本側は主に電気通信大学の小菅敏夫教授(当時)に前面に立っていただき調査•交渉を進めた。結果、南太平洋大学のイニシアチブでUSPNetアップグレード申請案が作成されたのである。

この申請案の意味、というのは当時自分も気づいていなかった事だが、ポストコロニアル体制の太平洋島嶼国の電話通信インフラという、まさにステータスクオを動かす重要な意味があった。申請案は各国の通信会社を利用せずに、南太平洋大学が独自のネットワークを構築し各センターに地球局を設置する、という内容であった。

これに反対したのが、当然のことながら各国の通信会社と今までサービスを提供していたPEACESATである。

太平洋島嶼国の通信インフラはポストコロニアル政策として旧宗主国通信会社によるモノポリー体制が敷かれていた。どの国も通信関連の法律に独占体制を明記していた。しかも通信会社の株の半分を島嶼国政府が有する形である。経営の実態は旧宗主国が牛耳っていたので、島嶼国政府を人質にして国家インフラ産業を独占したわけである。

この体制に挑戦したのがUSPNet申請案だ。小規模経済の島嶼国の通信会社にとって大学は大きな市場である。通信会社のサービスとは別のネットワークを南太平洋大学が単独で構築するのは独占を明記した法に反する、自分たちとは言わず国家の利益に反する、と攻撃してきた。こうして各国の通信会社が通信関連省庁とも連携しながら圧力をかけてきた。

ポストコロニアル政策が人質に取ったのは政府だけではない。フィジーでは電話通信会社が年金運用対象となっており、人々の年金まで人質に取っていたので反対の圧力はさらに強かった。

太平洋電話通信協会(PITA)という地域組織がある。小菅教授達といっしょに彼らとの交渉を重ねた。お互いの立場を理解しようとする努力を見せたことは多少効果があったと思う。

それからPEACESATは米国の覇権の未練があった。しかし、そんな事は表立って言えないので、教育サービスを市場経済インテルサット=商業衛星)に委ねるのはよくない、とか言って反対してきた。太平洋島嶼国は米国の覇権を嫌っている、とはっきりハワイ大学の担当者に伝え説得した。PEACESATは全ての交信を傍受記録していたのだ。冷戦下の事で周知の事実であった。

最終的にステータスクオを動かしたのは島嶼国のcollective powerだ。笹川太平洋島嶼基金はそのトリガーの役目をしたに過ぎない。

南太平洋大学には理事会があり、太平洋島嶼国の文部大臣で構成されている。各島嶼国国内で夫々交渉があったようだが、結果、各国の文部省が通信省に勝った。即ち「教育」という国家の優先課題がポストコロニアル政策に勝利した、と言ってよいだろう。

ここまでがUSPNet申請案ができるまでの話。それではなぜ日本のODA案件になったのか。

続きは <その2 プルトニウム輸送の代償としてのUSPNet>。