やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

『和辻哲郎と昭和の悲劇』小堀桂一郎著2017年

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 近現代史を知識人の精神の変容に視点を置いてかかれた書籍である。

何故、私がこの本を読む事になったのか?

3つの理由がある。

1.近現代史への関心 ー 日本と太平洋の関係を知るには第一次世界大戦が欠かせないし(実は天佑丸の航海などもっと前から関係があるのだが)2015年に天皇陛下のお言葉に接したこと。

2.小堀桂一郎氏への興味 ー 著者の小堀桂一郎氏は、天皇象徴論で私と同じ議論を、即ち米国の誰かが新渡戸の『日本-その問題と発展の諸局面』を参考にした、という説を持っている事。それだけでなく小堀博士は私の好きなシューベルトのリートの和訳をされていて、そのお名前は40年近く目にしてきたのだ。

3.和辻哲郎が新渡戸信者であった事。数十年前に建築家の友人から『風土』を読めと薦められ単行本を購入して数頁開いただけで、興味がわかず放っておいたのだ。しかし、和辻が新渡戸信者と知ったからには放っておくわけにいかない。さらに鶴見が言っている新渡戸門下の「偽装転向組」と和辻がどのように違うのか知りたかった。

以下、心に、頭に、留まった箇所をメモしておきたい。

20頁;この本が書かれた背景には未だに東京裁判の呪縛が解かれていないこと。あの「病的眩惑」「狂躁的事態」を見直したい、というところにある。

44頁:「戦後的現象」とは「日本の過去、特に先の戦争に対する呪詛、反省、悔恨の言説の氾濫と、その節を口にする人々に決まって見られる道徳的優越の表情」<ー 下線引きました。ここはすっごくわかる。特に笹川批判する学者とかジャーナリスト。

46頁:「八紘一宇」に関する誤解(過激な国家主義)を極東国際軍事裁判の法廷で日本側弁護団が検察団の日本非難に対し言論戦で勝利を博した、数少ない事例。知らなかった。三原順子議員は正しいのではないか!

54頁:日本人は武器の戦いだけでなく、宣伝による心理戦争にも敗北した。そして「勝者への迎合と卑屈」という節が展開されるのだ。

55-56頁:この心理的敗戦に理由を10年後に和辻哲郎の高弟、竹山道雄が『昭和の精神史』で議論しているが、小堀先生は60年経っても跡を引きずっている「未完了過去」への疑問があった。

58-59頁:『文系ウソ社会の研究』(長浜浩明著)にある、理解不能の事態の始まりが占領軍の昭和20年9-10月に行われた新聞各社への発行停止命令,回収命令等である。ここら辺はリップマンが米国から手を回しているような気がするが、妄想か。

76頁:日本の敗北が法的形式の「無条件降伏」でないことを高柳賢三弁護士が述べていたが、裁判所が全文却下したのである。小堀先生はこの高柳の学術的にも水準の高いこの論証が通っていれば誰も反論できず東京裁判がヒトラー立法と同様の裁判の仮面をかぶった私刑であり、ポツダム宣言の裁判でもない事がわかったであろう。この部分は国際法を学ぶ身としてしっかり勉強しておくべき箇所だ。高柳賢三弁護士の存在さえ知らなかった。

この後、 鈴木大拙始め多くの知識人が米国の情報戦に巻き込まれて行く事が書かれている。そして東郷平八郎だ。

122-124頁;白樺派の批判を和辻、竹山、安倍能成が行っている。ここで和辻が大正時代の社会主義は個人主義をやっつけ、それが過激になってゲバルトになり、ゲバルトなら「俺の方がお家藝だ」と軍人が乗り出してきた」と観察し、まとめたところを小堀先生は「さすが碩学の面目十分」と評価している。

134-135頁;ドイツの学問が日本人に与えた影響が大きかったという記述はカール・ハウスホーファーの事を思い出すと重要な気がする。

「それは宇宙・世界の真理を把握して人智に寄与する能力の開発にかけて彼らの絶大な自信を特色としていた。言い換えれば学問の持つ傲慢さもその頂点に達していた。」

そして津田左右吉がこのドイツ史学の、権威主義の傲慢にかぶれたのではないか、津田の近大主義は大正教養主義とは関係なく始まったのではないか、との仮定の下に上代史研究の話が展開する。

「世界」の編集長吉野源三郎の魂胆を見抜いた津田の「建国の事情と万世一見の思想」の話など面白い。この論文読んで見たい。吉野源三郎は今ミリオンセラーになっている「君たちはどう生きるか」著者である。津田が軽くあしらった吉野源三郎が70年後に日本に若者に読まれている現象をどう理解すればよいのか。。

151頁;大正11年以降のワシントン体制が「米国の平和主義の美名にかくれた戦略的なかん制かける企みの成功の第一歩にほかならなかった。」 ここにも確実にリップマンがいる、と思う。

198-199頁;美濃部の天皇機関説の議論が、尾崎士郎の歴史小説を取り上げて議論されている。小堀先生は愚かしい事件で概要を書くのさえ気が進まないと書いている。

274-276頁;ここの大変興味深い。日本憲法の主権在民は英語正文の誤訳だ、というのだ。これを小堀先生は「今上天皇論」(昭和61年発行、現在は『昭和天皇論』として日本教文社から発行)で説明している、という。

ちょっと確認してみた。”with whom resides sovereign power” の箇所だ。

Article 1. The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the People, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.

284頁;実はこの本を開いてからずっと期待した事がある。小堀先生が和辻を書くのであれば新渡戸が出てくるであろう。和辻が新渡戸信者であった事を小堀先生が知らないわけない、と。出て来たのがここである。しかも戦後、日本の国体をそのままコクタイと英語圏でも使用された理由は新渡戸の例の『日本-その問題と発展の諸局面』である、という。象徴といい、このコクタイと言い、そして近衛文麿を筆頭とした新渡戸門下の偽装転向といい、もしかして新渡戸は罪深い事をしたのではないだろうか?

288ー290頁:最後に引用したいのはベネディクトの『菊と刀』である。長野晃子著『「恥の文化」という神話』にこれがプロパガンダで、ベネディクトは当時教授職を得るためにひたすら名声を欲していた、というのだ。『菊と刀』を高く評価してきた文化人、教養人、知識人はどんな反論をするのであろう?和辻はこの書評を引き受けた後、後悔と共に依頼した石田英一郎になんでこんあ学問的価値が無いものを紹介したのか、と問いつめている。

やー小堀先生の本は面白い。実はこれが最初に読ませていただいた本である。

講演会などあれば是非参加したい。