2008年に私が立ち上げたミクロネシア海上保安事業。
きっかけは、中国人民解放軍が太平洋分割を意識していることを太平洋司令軍キーティング司令官が公聴会で述べたことに、日本財団の笹川陽平氏が反応し、正論の記事を書いたことであった。その作文の草稿段階で私は意見を求められ、「やるのであれば日米同盟を視点に置いたミクロネシア地域」と提案し、そのまま原稿に入った。
すなわち私の意見が笹川氏の正論として公表され、今度はこれを実現する立場となったのだ。任せてくれた、丸投げしてくれた元国交省審議官・笹川平和財団会長の羽生次郎氏には感謝したい。
ミクロネシア地域は、私が頭を下げて笹川太平洋島嶼国基金運営委員になっていただいた渡辺昭夫教授(私の2つ目の修士の指導教官)と共に下地を作っていたので、数ヶ月の間にミクロネシア3国の大統領の合意を得ることができたのだ。
この事業に対する私の思想的、政策的基礎には戦後初の日本の安全保障政策「樋口レポート」を書かれた渡辺先生の存在があった。常に渡辺先生には事業進捗を報告し、時にはご意見を仰ぎ、「樋口レポートの仇は私が取ります。」とまで宣言したのであった。
しかし「樋口レポート」ー 最近は保守でも知らない人がいるのだ。
実は私も秋山氏の『日米の戦略対話が始まった』を読んで初めて米国の「樋口レポート」への反発の詳細を知った。
誰も私が一人でミクロネシア海上保安事業を立ち上げたと信じる人はいない。あの時、足を引っ張ったのは豪州のラッド政権だけでなかった。日本の外務省、そしてなんと笹川平和財団の多くの職員に足を引っ張られたのだ。
私が命がけで立ち上げたミクロネシア海上保安事業は「樋口レポートのリベンジです」と私が言うと真剣に頷いてくれるのは評論家の江崎道朗氏だけなのだ。もしかして私の頭がおかしくなってかわいそう、とでも思っているだろうか?と疑っていた。
先日偶然昨年末に開催された江崎節が炸裂した1時間の講演をYoutubeで拝見した。江崎さんは日本の自律的、自主的安全保障、即ち「樋口レポート」の主張を過去数十年、防衛省の方や多くの政策関係者と共にフォローし働きかけてきた人であった。
だから「樋口レポートのリベンジです」と私が言うのを真剣に頷いてくれたのである。