御代がわりを迎えた10連休。御所北に位置する同志社大学でシュタイン、マルクス・エンゲルスを読んでいた。10日前後でまとめようと言うのが土台無理で勘違い等々随分いい加減にしかまとめられなかったが、それでもシュタインの輪郭が見えてきた。
日本の2つの憲法はこの2人から大きな影響を受けてるのだ。シュタイン先生が現憲法を知ったらなんと言うだろうか?新渡戸が王権はプロレタリア問題を解決する力がある、と言った意味もわかるような気がして来た。。
最後はケンブリッジ大学の博論です。カール・シュミットもシュタインを評価していました。
Diana Siclovan、Lorenz Stein and German Socialism 1835-1872
ウェブ上で偶然見つけたケンブリッジ大学のシュタインを扱った博士論文である。英語圏での情報の方が圧倒的多いだろうし学術レベルの研究が多くされているはずではと想像したからだ。2014年に出版された同博士論文はシュタイン研究を網羅的に整理している点も参考になった。限られた連休中の作業でありかなりの分量の資料を読んできたので、この博論は序章と結論、そして”Marx”で検索しその周辺を読む、という作業を行った。
同論文は前述した『平等原理と社会主義』がどのように書かれたか(1章)、そしてこの書籍がドイツの伝統的な過激社会主義にどのような影響を与え、それによってシュタインがどのように社会学理論を発展させざるを得なかったか(2章)、1848年の革命を通してシュタインが社会主義の影響をどのように分析し2つ目の大作である「フランス社会史運動」をまとめたか(3章)、1850年代の政治的変革の中でシュタインは社会科学を継続させたか(4章)、そして終章は1860年代にドイツのpolitical workerが出現する中でなぜシュタインは周辺に追いやられたのか、を扱っている。
1917年から1989年のソ連は社会主義国家としてのモデルを世界に示したが、研究者は主に政治面で議論し、歴史面ではマルクスしかあつかっていない。今やっと歴史家は多様な社会主義者の原点を発見しようとしているのだが」。
シュタイン研究は20世紀、ドイツでは何度か取り上げられてきたが、英語圏はほとんどと言ってない。マルキストからはシュタインのそれはブルジョアの社会主義で、マルクスの本当の社会主義ではないという先入観や偏見で見られてきた。シュタインが1842年に出版した『平等原理と社会主義』をマルクスが読んだ読まない、影響を受けた受けない、というシュタインとマルクス関連性の議論もされている。
1934年、ナチの党員がシュタインの論文を抜粋印刷して、その国家主義と社会主義がナチの教義と合致すると主張したことはシュタインの評価に影響を与えているし、シュタインの理論業績を多くコメントしたカール・シュミット(ナチとの関係で議論の多い法哲学者)の関与も、シュタインがNational Socialistと関連があるように捉えられた一因である。(8−10頁) しかしこれらの誤解はシュミットの弟子、Werner Schmidtによって捨て去られる。ナチとの関連などによって形成されたシュタインに対する誤解、すなわち単なる社会主義者でもマルクスが批判したような社会主義を裏切るブルジョアでもないことを、新たな資料を詳細に検証して証明している。Werner Schmidtによってシュタインの蔵書、原稿、書簡が、1980年にキール大学に設置されたローレンツ・フォン・シュタイン行政学研究所に保管されシュタイン研究に貢献している。
米国への左翼亡命者によって、すなわち英語でシュタインが議論されているが、最初にシュタインの論文が英訳されたのは1964年である。このKaethe Mengelbergによる英訳本が現時点(2014年)の唯一のシュタインの英訳本である。他方1980年から2010年になってやっと英語圏でのシュタイン研究が始まる。そしてマルクスではないもう一つの社会主義、すなわちシュタインの社会主義が認識されつつある。
シュタイン・マルクス問題だが、二人を結んだのはマルクスが主幹を勤めた「ライン新聞」であった。マルクスが主幹になる前からシュタインはパリから原稿を送っていたので、マルクスも送られてくるシュタインのパリの情報に興味を持って読んでいたであろう。(90頁周辺、114−115頁)
ライン新聞の主幹となったマルクスに社会主義者共産主義者のアイデアを教えたのはMoses Hessで彼はシュタインを読む読書会を主催しており、マルクス・エンゲルスも当然参加していた。1842年10月から1843年12月のこの1年強の時間にマルクスはフランスの社会主義について学んだのである。マルクスはシュタインの名前を挙げていないが、シュタインこそがマルクスの原点である。そしてマルクス・エンゲルスはフランスを超える革命を叫び、「世界人間解放」を呼びかけるのだ。
共産主義宣言3章cで「ドイツ社会主義または「真の」社会主義」と題して議論しているのは、まさにシュタインをはじめとしたドイツの正当な(ここは早川の意見)学者との軋轢を示しているのだが、このことは誰も理解していない。
ここで言えるのはシュタインの社会主義は国家主義であり、マルクス・エンゲルスのは世界の労働者階級の連携であった、という点だ。しかしは小泉の「民族と階級」の議論を思い起こせば、現実のマルクスはドイツ人至上主義で、スラブ人蔑視であり「世界の労働者階級の連携」をどこまで真剣に考えていたのか疑問である。
1872年、シュタイン及びドイツの社会学者は経済自由主義とマルクス革命と戦い社会改革を行うための研究所を創設した。それはシュタインの考えを実行する場所でもあった。(274頁)ここでわかるのはシュモラーが新渡戸に言ったようにまともな学者はマルクスを相手にしていなかったということだ。
<考察>
あまりにもマルクスの名前が大きすぎて影に隠れてしまっているシュタインだが、Siclovanによれば、ドイツだけでなく、英語圏でもその研究が始まっているというのは心強い。何よりもシュタインの晩年、すなわちシュタインの集大成を日本の明治国家は明治天皇を筆頭に国家ぐるみで学び国家形成に反映させたのである。もしかしたら日本に強固な共産党、共産主義、社会主義があるのはシュタインの遺産なのかもしれない。他方マルクスの預言者的、非科学的要素は注意して検証していくべきであろう。博士論文の理論枠組みである自決権を研究する際にシュタインは何がしかのヒントを与えてくれそうな気もする。