PEACESATが使用した米国の衛星 ATS-1, GOSE-7
冷戦終結で米国が去った太平洋は主人を失った事業が山のように残されていた。
その一つが中古衛星を使用した教育・福祉ネットワークである。
1991年私のデスクには2つの要請書があった。ひとつはハワイ大学が進めるPEACESATという衛星実験事業の政策会議。もう一つはフィジーに本部がある南太平洋大学の衛星を利用した遠隔教育の改善要請だ。
冷戦最中に米ソの競争が激化したのが宇宙開発である。1961年、ケネディ大統領の「宇宙通信に関する大統領声明」をきっかけに世界を網羅する衛星通信サービスインテルサットが開始した。米国の衛星開発はさらに進み、1971年には中古衛星を利用した無料の通信サービスが太平洋の島々を結ぶことになったのだ。これがPEACESATで、同時に南太平洋大学の遠隔教育通信USPNetも誕生する。私はこの2つの事業に関わり、その結果を2つ目の修論と一つ目の博論で書くこととなった。
PEACESATは米国、ハワイ大学主導。USPNetは英国主導で大学の仕組み、通信制度が全く違い、当初より不協和音が発生していた。
南太平洋大学は中古の不安定で米国の監視付きの無料衛星サービスより、安定した商業衛星の独自のネットワーク構築を希望していた。当時太平洋島嶼国の通信サービスはどこも独占運営だったが、その制度改革も含まれていた。
PEACESATを支援強化すれば南太平洋大学がカバーしていないミクロネシアにも裨益できるのだが、結局1997年の日本政府主催第一回島サミットの目玉事業となったUSPNet支援はPIF事務局長だったキリバスのタバイ氏に私が働きかけて日本政府を動かしたのだ。
ここまでも大きな作業であったが、ミクロネシアをある意味私は見捨てた事になる。パラオのナカムラ大統領、ビリー・クアルテイ文部大臣の顔が浮かぶ。そこで渡辺昭夫先生のアドバイスもいただき1999年からミクロネシア地域協力の枠組み支援の具体策として情報通信支援を開始した。まさに米国はゴア副大統領がGII世界情報基盤を主唱し、IT(後にICT)が世界の議案になっていた。2000年の沖縄G8ではIT憲章と呼ばれる情報通信支援案が採択された。
この沖縄G8開催数ヶ月前に第二回島サミットが宮崎で開催された。ここに当時PIF議長であったパラオのナカムラ大統領も共同議長として参加。日本の議長は森総理だった。
1992年2月東北大学でPEACESAT政策策定会議支援を決定したのも私である。2,500万円ほどの助成金を獲得した。ここに東北大学の野口正一教授が郵政省を動かしてさらに2,500万円。合計5,000万円の会議となった。雪が舞い散る仙台でに米豪を含む太平洋島嶼国から300人もの参加を得た。写真はその会議の後に私が立ち上げた太平洋情報通信研究会の電気通信大学小菅敏夫教授、田中正智教授と共に太平洋の島々の現地調査を実施。(筆者は左端)アイランドホッピングの調査であった。これが日NZ豪協調ODA 案件となったUSPNet事業につながる。