やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

ミクロネシア5カ国は太平洋諸島フォーラムから離脱すべきか?

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<中国の影響下にあるフォーラム>

今年50周年を迎える太平洋諸島フォーラムの第51回総会がオンラインで8月6日開催された。事務局長選挙を巡って今年2月にフォーラム離脱を表明したミクロネシア5カ国(パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、キリバス、ナウル)は、ナウルが総会に出席したが、他は欠席。フォーラム離脱の意思は揺るがないようだ。

5カ国のフォーラム離脱が中国に利するというコメントをたまに見かけるがそれは誤解であることをミクロネシア連邦大統領が明かした。ミクロネシア連邦とキリバスにフォーラムに留まるようアドバイスしたのは中国政府だという。即ちフォーラム自体が中国の影響を受けているということだ。

 

ミクロネシア5カ国の内3カ国が台湾との外交関係を維持しているが、5カ国がフォーラムを離脱した理由は中国の影響ではない。直接的理由は事務局長選で、紳士協定であるはずの地域のバランスが無視されたことである。またパラオ大統領はコロナ対策において豪州政府の対応に不満を述べていたように、フォーラムのメンバー国でもある豪州、そしてニュージーランドの影響力への批判だ。事務局長選挙で豪州とニュージーランドがミクロネシア諸国の意向を無視した投票をしたことは明確である。

フォーラムを離脱したミクロネシア5カ国は今後どうするのか?ミクロネシア大統領サミットの地域枠組みで今後は地域の問題に対応したことを表明している。このミクロネシア地域枠組みは私が1997年頃から関与してきた動きだ。あまり知られていないようなのでここに敷衍したい。

 

<ミクロネシア地域協力の背景>

きっかけは1997年の日本政府主催第一回太平洋島サミットだ。この会議の目玉ODAがUSPNet改善事業であった。私は1991年から6年かけてUSPNet事業をODA案件にまでもっていった本人であるが、USPにはミクロネシア3カ国は入っていない。マーシャル諸島は当時のアマタ・カブア大統領の強い意向でメンバー国となったばかりであった。

 

教育制度における英国式・米国式の壁は高く、パラオ、ミクロネシア連邦の教育関係者にUSP加盟の可能性を打診してもその意向はないという。本来グアム大学が地域の高等教育の責任を持つ立場であり、私はグアム大学を中心としたミクロネシア遠隔教育ネットワークの可能性、すなわちミクロネシア地域協力の枠組みを支援した。

 

現在の米国政府のミクロネシア、太平洋への関与からは想像もできないが、当時ミクロネシア3カ国が自由連合協定を締結する米国の当該地域への関心は薄く、お金も労力かかる同協定の米国との継続協議を一国ではなく3カ国共同で行っていこう、という動きもこのミクロネシア地域枠組みを推進した。

 

<フォーラム離脱の兆候と海底通信ケーブル>

ミクロネシア地域枠組みに大きな動きがあったのが1999年の第45回太平洋諸島フォーラム総会である。私はたまたまパラオを訪問しており、議長であったパラオのナカムラ大統領から興味深い話をうかがった。「太平洋諸島フォーラム」は「南太平洋フォーラム」という名称であったが、議長であったナカムラ大統領が豪州とニュージーランドの強い反対を押し切って「南」を取ったのだという。さらに豪州とニュージーランドが押し付けてくる経済協力枠組みも拒んだという。豪州・ニュージーランドに対し相当な反感を持った様子であった。

翌2000年か2001年にパラオのナカムラ大統領とビリー・クアルテイ外務大臣の主導でミクロネシア大統領サミットが開催され、ここにミクロネシア地域協力の枠組みが形となって現れたのである。

 

私はこの枠組みの中で、ミクロネシア地域の通信インフラを支援してきた。結果2008年頃ミクロネシア連邦のイティマイ運輸・通信大臣のイニシアチブで通信制度改革が大きく進み、1本目の海底ケーブル敷設に辿りついたのである。

 

ミクロネシア地域枠組みは、米領のグアム、サイパンが参加したり、ミクロネシア連邦の4州が代表を送ったりと形を様々に変えて発展してきた。ナウル、キリバスが参加する5カ国の枠組みになったことは喜ばしい。なぜならば豪州、ニュージーランド政府の努力を高く評価するものの、地理的に遠く、また広大なキリバスは両国の手に余るであろうし、ナウルに関しては難民センター問題で豪州の対応は残念ながら歓迎されていない。逆にミクロネシア諸国も豪州・ニュージーランドが主導し、フィジーに事務局を置くフォーラムの活動に参加するのは時間も費用もかかる話である。

 

<人種差別と歴史的背景>

ミクロネシア諸国が南太平洋から分離していった歴史的背景も若干触れておきたい。歴史的に見れば海洋民族の彼らがパプアニューギニア北部と交流があったことは考古学や言語学で明らかにされている。バヌアツのカヴァという植物はポナペのそれと同じであり、赤道を越えた交流は西洋人がこの地域に進出以前にはあった。

ドイツの南洋植民地はミクロネシア地域とパプアニューギニア、ブーゲンヴィル島、即ち赤道を越えた広大な領域をカバーしていた。これを赤道線で分けたのが第一次世界大戦である。1911年創設された豪州海軍はミクロネシアの旧独領の島々をカバーできず日本軍が占領することとなった。たとえ豪州領になっても遠くて面倒を見きれないという判断を豪州政府自らしていた。さらにベルサイユ会議で合意されたC式委任統治は、豪州が受任したニューギニア、ニュージーランドが受任したサモア、日本が受任したミクロネシア地域の経済交流「門戸解放」を強固に拒み委任統治条項から外したのは豪州とニュージーランドであった。当時の豪州政府の白豪主義、即ち人種差別が主な要因である。これも今の日豪関係を見ると想像もできないが、この白豪主義がミクロネシア地域を日本の地域的経済枠組みに固定し、戦後米国の信託統治地域に移行し、現在に至るのである。

 

<ミクロネシアはフォーラムに留まるべきか、離脱すべきか?>

筆者は太平洋島嶼国だけでなくアセアン諸国も日本の内閣府関連の国際青年組織事務局長として関与してきた経験から、まずは現地の人々の意向、意見が尊重されなければならないことを強く主張したい。まさに自決の法則である。しかしその自決の過程は多く利害関係者との情報・意見交換が行われる必要がある。小国の自治には質というより、量の観点から自ずと限界があるからである。その限界を日米豪で支援できる体制が何よりも重要だ。