やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

【中国の植民地、ニセコ】レルヒ少佐『明治日本の想い出』読書メモ

ニセコから離れられない。少し距離を置きたのだが。

でも、これで最後にしたい。春が来るまでは・・・

 

ニセコに、日本に、スキーを紹介したオーストリア・ハンガリー帝国軍人、セオドール・フォン・レルヒ少佐の事だ。多分今回のニセコ訪問で、香港の李嘉誠より、縄文人より興味を抱いた人物である。

レルヒ少佐は日露戦争で勝利した日本を視察しに1910年11月から2年間日本に交換将校として滞在。当時の日本軍は八甲田山の事故もあり、スキーの軍事活用を訴えていたレルヒ少佐からスキーを学ぶ。その一環でレルヒ少佐は旭川の第七師団に派遣され羊蹄山でも日本軍人と共に登山しスキーで降りてきたのである。これぞニセコスキーの始まり。旭川の前は越後高田の陸軍第13師団に配属。

同じ時期ドイツ軍人のカール・ハウスホーファーが交換将校として日本に来ている。インド太平洋を語る者で彼の名前を知らないのはモグリである。ハウスホーファーこそインド太平洋を最初に提案した人物であり、ヘスを通してヒトラーに地政学を教えた人物であり、戦争開始頃の狂った日本学術学界がのめり込んだ人物だ。私は彼の著作を1、2ヶ月没頭して読んだ事がある。

レルヒ少佐が日本に来たのであればこのハウスホーファーと、もしくはもっと以前に30年も日本に滞在したベルツ博士との接触があったはずだ。文献は?

あった。

中野理というお医者さんが、高田滞在中レルヒの研究を開始。しかし戦前の事で、戦争中に資料を失い、戦後1957年(だったか)初めてレルヒに関する研究書『スキーの黎明』を出版した。これを知ったレルヒ少佐の欧州の家族から連絡があり、交流の末、レルヒの日本滞在記を翻訳されることになった。

『明治日本の思い出:日本スキーの父の手記』(1970、中外書房)絶版である。しかし同志社大学にはあった。手記だから軽く読み流せると思いきや、結構中身が濃く3日間もかかってしまった。ベルツもハウスホーファーも出てこないが日本観に共通するものがある・・

 

ベルツもハウスホーファーも日本に同情的である。特に対米に関して。

同書17ページ 引用

1900年にはアメリカはハワイを確保した。

これが日本にとって最初の打撃であった。第二の打撃は1912年、日英同盟条約の改訂であった。その条約には戦争の場合、日本イギリス両国は共同してこれに当たる。但し、アメリカを除外する、と修正されたことであった。日本は今や二つのアングロサクソン世界勢力に対抗して、勢力拡張に懸命である。

ー 日本は南方への道を阻まれ、人口過剰の吐口を北方に求めなければならなかった。

太平洋は今日もなお、常に二人の競争者を持つ。アメリカと日本!

 

この手記は1911年に書かれた。当時のオーストリア・ハンガリー帝国軍人の視点であり、当時の日本人(軍人・政治家)の視点であったであろう。まさに3年後、日英同盟で日本はレルヒの国を敵にして戦争に参加する。そして獲得したのがドイツ領の南洋だ。アメリカさんが怒ったのなんのって。これが太平洋戦争、第二次世界大戦につながる。第二次世界大戦1939年9月に開始。あっといういう間にアングロサクソン諸国は太平洋に日本軍とドイツを撃つ基地を作っている。フィジーの南太平洋大学の場所もそうだ。。

日本にとって米国は脅威だったのだ・・ ドイツ、オーストリアは多分冷静に見ていた。

 

さてレルヒさんの視点は興味深い。歓迎の会の様子も描かれ、ゲイシャの話が出てくる。しかしそのゲイシャは欧州で広く誤解されているものとは違う。明治維新で財産を全て失った士族の娘が家族を養うべくゲイシャになっていることを二度も書いている。

そう、レルヒさんはフェミニストなのだ。

なぜ独身を貫き、53歳で結婚したのか? 若い時心に決めた人と添い遂げるためであった。絶世の美女イルマ・フォン・レルヒさん。この二人の恋物語の詳細を翻訳者中野先生が解説に書いている。そんなに美しい女性だったのか!ウェブで見つけました。負けた!

 

次々と若い女性と付き合う香港の李嘉誠と息子リチャード。天地の差である。断然レルヒさんを応援したい。ニセコにもレルヒの肖像を!

 

追記

ところでこの一次資料としても貴重なレルヒの手記は、中野先生の判断でかなり省略されている。満州、樺太、朝鮮、京都から東京。この地名を聞いただけで重要な内容のはずだ。同じ疑問を持った人がいてペーパーがあった。

池田弘一 「レルヒの日本観に関する一研究」 スキー研究 Vol 11, No.1  2014 73−79ページ